昭和20年8月15日の今上陛下のご決意と城山三郎の「大義の末」
2014.08.11 Monday 18:05
くっくり
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[皇太子殿下(今上陛下)が疎開生活を送られた栃木県の奥日光の南間(なんま)ホテル。現在は益子町に移築され「つかもと平成館」となっています]
昭和19年、戦火の拡大により、皇太子殿下は、日光へ疎開されました。
昭和20年7月から11月までは、湯元の南間ホテルに滞在しておられました。
昭和20年8月15日の終戦の日の玉音放送も、ここでお聞きになりました。
その日の殿下のご様子を、戦時中は学習院軍事教官兼御用掛、終戦後は宮内庁御用掛嘱託として、殿下が学習院初等科に通われる頃からお側に仕えた高杉善治さんが記録していました。
この時期の殿下(今上陛下)の唯一の記録とされています。
高杉善治さんの娘婿である小池松次さんがまとめたものです。
拙ブログ06/12/24付でも紹介しましたが、一部再掲します。
【八月十五日、正午に陛下の重大放送があるというので、午前の授業が終わると、学習院の生徒(殿下を除く)は、南間ホテルの二階の廊下に集まって拝聴した。しかし、ガーガーと雑音がはいって、さっぱり聞きとれなかったので、先生が内容を確かめたうえで、あまり生徒を刺激しないよう婉曲に説明して聞かせた。
殿下はお立場上、別室でお聞きになられたほうがよかろうということになり、ホテルの二階の御座所に帰られ、穂積東宮大夫、石川主任傅育官、門倉、山田、東園、村井、黒木、栄木の各侍従が侍立して、一同直立して、御座所備え付けのラジオで聞かれた。このラジオは雑音もはいらず、明瞭に聞きとることができた。
ご放送の内容については、だれもそのときまで知らなかった。一同は、かたずをのみ、くい入るように玉音に耳を傾けていた。ご放送が進み、終戦のご放送であることがわかったとき、侍従たちの間から、嗚咽の声がもれてきた。
ラジオの前にきちんと正座して聞いておられた殿下は、急に目を閉じ、頭を深く垂れ身動きもせずじーっとお聞きになっておられたが、しっかり握りしめられた両手はかすかにふるえ、目がしらには涙があふれ光っていた。
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