「アンカー」北方領土問題が大きく動く!? 拉致への影響は?(付:村山元首相韓国講演)
2014.02.13 Thursday 01:24
くっくり
岡安譲
「100年以上ですね」
青山繁晴
「はい。で、ポーツマス条約で決めた、その国境線がそのまま生きてるわけですよね。で、その国境線によると、北方領土はもちろん日本の物なんです。で、そのことをですね、実は、『ギモズバ!』、皆さんの疑問にズバズバ答えるっていうのを今後やっていくと(先週)申しまして、まだメールアドレスの設定が、先週はできてなかった。今週はできてるからあとで言いますが、ファックスでの受付だけなのにいっぱい来てですね、ありがとうございました。その中に、この、この日本とロシアの主張がよく整理できて…、整理して分かんないって質問も、いくつかありましたから、えー、この際それをきちんと、しかも簡潔に、時間がないからお答えしたいと思うんですが、ちょっと出して下さい」
村西利恵
「地図と年表です」
image[140212-10map.jpg]
青山繁晴
「えっとですね、まず、これ(1855年)江戸時代です。ね。明治維新は1868年ですから、その13年前に、とりあえず日本とロシアの間で、条約(日露和親条約)結びましたと。ね。で、条約結んだ時に、領土をどうしたかというとですね、えー、まず国境線はここ(択捉島まで)です、ね。これ、ここに書いてないですけど、千島列島の得撫(ウルップ)島って島です。これ択捉ですね、北方四島のうちのひとつ。この択捉と得撫の間に、日露の国境引きましょうと。で、樺太どうしたのか。ロシア語だとサハリン、日本語だと樺太をどうしたのか。これごちゃごちゃに、日本もロシアも入ってるから、まあ決めないことにしましょうって話になった」
村西利恵
「決めないことにした」
image[140212-11mapUp.jpg]
青山繁晴
「はい。で、それはまあ、いかにも江戸時代なわけですよ。そして、この間に明治維新があったらですね、やっぱりそれはちゃんとしましょうってことになって、日露の間いろいろ交渉があった。まずその樺太で揉め事もいろいろ起きたので、その、今度は明治政府が、1875年に、ロシアとの間で条約(樺太千島交換条約)結んだんです。その条約、もう名前のまんまですけど、樺太と千島全島を全部交換しましょうと。つまり、樺太は、もう日本はその時点では諦めますと。これ(樺太)全部ロシアにしますと。今これ(画像では)半分になってますけど全部ロシアにする。その代わり、千島列島は、もともと日本の島々に加えて、この、ね、江戸時代にいったんロシア領とした得撫島以北も、ずーっとこれ、一番北の端、占守(シムシュ)島っていうんですが、そしてここ(地図右上端の青い箇所)カムチャッカ半島です。カムチャッカ半島の真下、占守島から、得撫島まで、も、全部日本の物にすると。だからこの、残りの島々と樺太の全部を、交換したわけですよね。で、それで確定しましたが、そのあとに、日露戦争が起きました。で、日露戦争の結果、1905年、アメリカのポーツマスっていう町で、アメリカの仲介で日本とロシアが話し合いをして、条約(ポーツマス条約)を結びました。その時にどうしたかというと、この千島列島はそのまま、全部日本の物。ね。日本は戦争に勝ちましたから。ロシアは負けたと認めなかったけど、事実上勝ったから、この島はそのまま日本の物。そして、ロシアに全部、いったん渡したはずの樺太の南半分は新たに日本の物にしましょうってことになったんですよ。皆さんお分かりですよね? つまり、この(ポーツマス)条約によって、南樺太と、樺太の南半分と、千島全島は、その北海道の一部である四島に加えて千島全島は、全て日本の物っていうことが確定した、んですね」
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