2013.04.22 Monday 19:52
くっくり
そこでは、若いお母さんが幼児を抱えて続々と集まってきていた。そして皆笑顔で我が子にワクチンを飲ませていた。その横では、お祭りのように人々が笛や太鼓で踊っていた。本当に、我が国は隣人に喜ばれるよい援助をしているものだと実感した。
しかし、この援助をスーチー女史は非難していたのだ。そして、日本政府は遠慮がちに援助していたのである。
なお、スーチー女史は、ヤンゴン以外のミャンマーを知らない。つまり、彼女はビルマ人の顔をしている英国人である。顔はビルマ、心は英国。実は、イギリスの植民地政策というものは、被支配地の上流階級をこのように作り上げるものなのだ。
2、私とミャンマーとの関わり
民社党(平成6年12月9日解党)の公式ミャンマー訪問団として、始めてミャンマーを訪れたのが平成6年5月。
(中略)
始めてミャンマーに入国して歩き回って感じたことは、日本の報道は事実を伝えていないと言うこと。日本のマスコミは、同じ「軍事政権」でも北朝鮮は「地上の楽園」と伝えてきて非常に甘く、ミャンマーの「軍事政権」は悪の権化のように伝えていた。
事実は全く逆で、ミャンマーの人々は信心深く穏和で親切、首都ヤンゴンはニューヨークやパリ、ロンドン、東京、大阪よりも安全で、浮浪者は皆無。
「豊かさの中の貧困」と「貧しさの中の豊かさ」、ミャンマーは日本人が忘れたこの豊かさをたたえていた。
そして、その「軍事政権」の親分のキン・ニュン第一書記は、禁欲的な威厳があり、明治の大久保利通とはこのような雰囲気の男だったのではないかと思うほど立派な陸軍中将であった。
対して、アウン・サン・スーチーの言っていることは、英国流・米国流の民主主義を直ちに実現させない政権はすべて悪だと言うに等しくミャンマーの現実を無視していた。事実、彼女は英国で育ち、英国人の夫と子供の家族とともに長年英国に住んでいてミャンマーを知らなかった。
私は、キン・ニュン第一書記に、スーチー女史の言っていることは空論である。自信を持ってミャンマーはミャンマーの民主化を着実に進めて欲しいと言った。
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