[2] 大阪都構想タウンミーティングに行ってきた&橋下市長と藤井教授の公開討論希望!

Comments


とおる
2015/03/07 05:07 PM
はじめまして、

本記事とは関係ないのですが、先日の青山さんの話とも関係のある、
くっくりさんが、先日、ツィートされていた「 シャーマン国務次官の発言が韓国で反発を呼んでいることを受け、米国務省が出した慰安婦に絞った補足見解。 産経【「性的な目的の女性の売買」と表現し、人身売買だとの認識を示した】 ハンギョレ【「性を目的とした日本軍の女性人身売買行為は恐ろしくひどい人権侵害だ」と批判】 何か違う。 」に関連して、慰安婦制度が性目的の人身売買制度であるとの批判に対して、個人的には、以下のような感想を持っていますので、長文乱文申し訳ありませんが、ご参考までと思い失礼させて頂きます。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
・そもそも、当時の日本においても法令的には人身売買、強制売春は違法行為だった。
・また、実際にも、例えば、秦郁彦『慰安婦の戦場の性』(以下、「当該書」)によれば、旧日本軍は、女性の慰安婦登録の際には女性本人の意思を確認していた、また、騙されたとか意に反するような場合には別の職を斡旋していた、などの証言もあり(当該書93頁)、旧日本軍側は、人身売買的、詐欺的な違法行為については排除、取り締まりに努めていた可能性がある。
・この場合、後述もするように、女性本人たちは、慰安婦業就業は本意でなかったとしても、親の借金返済のためと思い、あるいは、現在の貧困から抜け出すためなどの理由で最終的には同意していた可能性が考えられる(当該書38頁)
・オランダの軍事裁判によって事件内容が調査された「スマラン事件」においても旧日本軍の上級司令部は自由意志の女性だけを雇うよう指示していたことが事実認定されている (吉見義明『従軍慰安婦』177頁)。
・因みに、本題とは直接関係はないが、「スマラン事件」に関連していえば、事件の真相は、処刑された担当者の手記も参考にすると(当該書220頁)、当初、オランダ人女性は慰安婦業に同意していたが、仕事を実際に始めてから、文化、言葉の壁もあり、仕事内容、待遇の面で話が違うなどのトラブルが発生したとの可能性も十分に考えられる。
・人身売買に関連しては、慰安婦制度のベースとなった公娼制度においては、外形上は人身売買制度ではないが、悪徳な業者が女性たちから料金、賃金を様々な理由を付けてピンハネ、巻き上げることで前借金を返せないようにして、女性たちが、実質、一生、売春業に携わざるを得ないような状況に陥らさせるとの実態が、業者が悪徳な場合あったために、公娼制度を、実質、人身売買制度とする認識もある (当該書36頁)。
・しかし、この点について、慰安婦制度においては、通常の公娼制度とは異なり、そのような悪徳な業者を最初から選定しないようにしたり(当該書56頁)、あるいは業者を監督して女性の手取りを多くさせることで(当該書392頁)、また、兵士からの多額のチップもあって、前借金については数年で完済して、その後は、働き続け貯金が溜ってから、現地で結婚したり、故郷に帰っていた可能性ある(当該書383頁)
・こうした実態については、1944年の米軍の報告書(Report No. 49)にも似たような記述がある ( 1942年の中頃にビルマ現地で慰安婦登録した女性のうちの何人かは1943年の遅くには借金を完済して帰国が許可されていた(1年ちょっとで借金を完済していた女性がいた)。 現地で結婚をした女性もいた)。
・また、慰安所の原型とされる(当該書65頁)第1次上海事変時の陸軍慰安所の規則には次のような条項がある「営業者にして接客婦に対する利益の分配並び待遇上不当の所為ある場合は営業を停止することあるへし」(第37条。当該書413頁)
・また、敗戦後、慰安婦の女性たちについて、(少なくとも)旧日本海軍は敗戦前後に慰安婦の女性たちを補助看護婦とする措置をとった(林博史ブログなど)
・このような措置について、韓国側は隠ぺい工作であるとの主張をしているが、このような措置では隠ぺい工作にならないし、また、「親切な軍医さんが私たちを看護婦だと英国兵にウソを言って一緒に復員船へのせ連れて帰ってくれました」(「帝国軍隊従軍記 現代史の証言4--千田夏光 (1975年)」)との証言もあるようであり、日本敗戦の混乱した敵地で(旧日本軍に協力した)敵国民間人として危害を加えられることを防ぐ目的の可能性が高いのではないのか?いずれせよ、韓国側が主張している、敗戦時に慰安婦の女性たちが旧日本軍によって殺されたとの主張は全く根拠のない話となる。
・以上、従って、慰安婦制度は公娼制度とは異なり、運用面などにおいて女性たちに対して様々配慮されていた可能性があり、公娼制度が実質人身売買(的)制度であるとの認識だけから、慰安婦制度もそうだと決めつけて、慰安婦制度を人身売買(的)、強制売春(的)制度とする批判は当たらないのではないか。
・なお、上記米軍報告書に関連して、この報告書では、女性たちは騙されて連れて来られたとの記述もあるが、これについては、同じビルマ、同じ時期(1942年中頃)についての下添付【引用1】の記事にあるように、米軍報告書にあるビルマのこのケースでも憲兵隊がそれなりに対応をしていた可能性もあるのではないないか?( 騙された女性が慰安婦業就業を拒否している場合には、他の職を斡旋 )
・なお、【引用1】については、インターネットの掲示板での拾い物で原典を確認していないため正確であるかどうかは未確認であり、かつ、どこまで裏がとれた記事か分らない上に、記者が面白おかしく表現している面もあるので、取り扱いは要注意だが、旧日本軍側が、慰安婦業就業を拒否している女性に対して、それなりの対応をしているとの点で、最初の方で挙げた例と首尾一貫している。
・また、この騙されたとの関連では、元慰安婦の文玉珠さんも同じ頃の1942年の半ば頃に「騙されて」同じビルマに渡ったと証言しているが、文さんの証言によれば、業者に誘われた時点で「そうした話」だと薄々察しており、そうした女性が結構いたような証言のようでもある(当該書183頁)。
・ならば、業者が騙したといっても、事情は千差万別で、「騙された」女性たちも、「そうした話」の可能性を十分に承知したうえで、高給に誘われたり、現在の貧困、苦しい生活、不本意な生活から抜け出したい一心からとか、あるいは、本人は全く騙されていたが親は売春と承知した上で娘が親に「この人の言う事を良く聞け」と諭されて家を送り出されていたために、(親に)騙されたと悟った時点でも家の借金を返すためと(当該書38頁))、最終的に同意していた可能性も考えられる。
・また、旧日本軍側も、そうした実態もあったので、業者による「騙し」に対しては、傍から実情も知らずに見ると不十分と思われるような措置しかとれなかった側面も考えられる( 例えば、最終的には女性本人たちも同意しているし、仮に強制的に女性たちを故郷に返したとしても借金、貧困については何も解決せず、女性たちが、一層困難な状況に追い込まれる可能性を考えるのであれば、女性本人の同意を優先して、女性たちを強制的に返すとの第3者的には最も分りやすい措置は見送っていた可能性 )

・以上、いずれせよ、当時の日本においても法令的には人身売買、強制売春は違法行為であり、日本軍、憲兵隊、警察が法令順守の立場から、そうした違法行為の排除、取り締まりに(結果としては不十分であったかもしれないが)努めていた可能性は十分にあり、ならば、慰安婦制度を、人身売買、強制売春を前提にした制度かのような主張は的外れと言わざるを得ないのでは、と。
・ならば、日本側としては、元慰安婦側、韓国側の主張について、そうした事実はないとの(「ない」ことを証明する悪魔の証明のような)主張だけではなく、併せて、旧日本軍としては、法令順守の立場から、組織としては人身売買、強制売春の排除の立場であり、(結果としては不十分であったかもしれないが)それに努めていた(可能性が高い)と主張していたった方が国際世論に納得してもらうためには効果的ではないのか?
・なお、秦郁彦『慰安婦と戦場の性』については、当該書は強制連行がなかったことを示すことが目的として書かれているためか、人身売買、詐欺、強制売春の問題に関しては、さしたる裏付け、考察もなく、一読すると誤解を与えるような表現、構成が各所にみられるので読む際には注意が必要かとも(「批判」的に読み返す必要があるかとも)思われますので念のために。


【引用1】
「読売新聞の従軍記者 小俣行男氏の記録」 
1942年5月か6月頃 ビルマ(現ミャンマー)

(朝到着した貨物船で、朝鮮の女が四、五十名上陸したと聞き、彼女らの宿舎にのりこんだとき)
私の相手になったのは23、4歳の女だった。日本語は上手かった。公学校で先生をしていたと言った。 「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話しで募集がありました。 私は東京に行ってみたかったので、応募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京に行かず南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいがおろされて、 私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけに行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。16、7の娘が8人にいます。 この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか」

考えた末に憲兵隊に逃げこんで訴えるという方法を教えたが、憲兵がはたして助けるかどうか自信はなかった。結局、8人の少女は憲兵隊に救いを求めた。憲兵隊は始末に困ったが、将校クラブに勤めるようになったという。 しかし、将校クラブ(将校専用の慰安所)がけっして安全なところでないことは戦地の常識である。その後この少女たちはどうなったろうか。
※出典 小俣行男著『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社(1967年)より
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

[5] comment form
[7] << [9] >>


[Serene Bach 2.04R]