尖閣問題を考える上での具体例を77年前の本に学ぶ

 尖閣衝突ビデオ流出問題で、海上保安官の逮捕が見送られることになりました。
 今後、捜査当局は在宅での捜査を続け、今月中にも書類送検し、送検後は検察当局が早期に刑事処分を決める見通しです(時事11/15 22:50)。

 逮捕を見送ったのは当然だと私は思います。
 そもそも刑事罰に値するのか?という声が専門家の間でも高まってましたしね。
 あと、世論の影響も大きかったようです。

 仙谷官房長官は8日の会見で、「厳罰に処すべきと考えている国民が圧倒的多数だと信じている」と自信たっぷりに言ってましたが、現実は逆で、「厳罰に処すべきではない」と考えている国民が圧倒的多数だったのではないでしょうか。

 あの中国人船長を釈放してしまったのは検察ではなく菅政権の判断であったことを、国民は皆知っています。明らかな犯罪人である船長は釈放しておいて、もしこの海上保安官を厳罰に処すようなことがあれば、菅政権は即、吹っ飛んでしまったことでしょう(そこに政権の介入があったかどうかはともかく)。

 彼が今後どうなるかですが、ある専門家は「罰金刑か起訴猶予の可能性が高い」と話していました。
 引き続き動向を注目していきたいと思います。
 
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みのもんた氏の韓国に対する認識の間違いを正す「SAPIO」06.4.26号

 狭い自宅が古い雑誌や本でいっぱいに。
 このままあっさり捨ててしまうのももったいない。
 というわけで始めた「捨てる前にテキスト化」シリーズ。
 第2弾の今回も「SAPIO」からの転載です。

 (第1弾はこちら→7/27付:日本統治を直視する韓国の静かなる肉声「SAPIO」01.9.26号


 全文起こしここから____________________________

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「SAPIO」2006.4.26号
特集【韓国「堕ちた偶像」】より

<嫌日流>
韓国「反日世論」の罠 前編

拝啓 みのもんた様 イチロー・バッシングはどう考えても言いがかりですよ

作家 井沢元彦

 3月に開催されたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)は、見事日本の優勝で幕を閉じた。一方で、日本に2勝しながら準決勝敗退となったお隣・韓国では、“日本の英雄”イチローに対し、なぜか大バッシングが起こっているという。「向こう30年は日本には手を出せないなという感じで勝ちたい」という発言が火種となり、マスコミやインターネットで誹謗中傷が止まらないのだ。
 よもや準決勝敗退の憂さ晴らしではあるまいが、驚くことに日本国内にもこれを擁護する人間がいるという。作家・井沢元彦氏が、自らの髪の毛を賭けて日本を代表する文化人の認識を正す。

 
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日本統治を直視する韓国の静かなる肉声「SAPIO」01.9.26号

 狭い自宅が古い雑誌や本でいっぱいに……。
 ついに夫から「何とかせえ」と指令が……(T^T)
 単行本はともかく雑誌は少しずつでも捨てていかなアカンなぁと、私も常々思っていたところでした。

 となると、捨てる前にもう一度読んでおきたくなるのが人間のサガ。
 1週間ぐらい前から斜め読みしてきて、面白い記事をたくさん見つけました。
 「この記事は保存しておきたいなあ。あっ、この記事も!」
 ……って、キリがない(T^T)

 そうだ!ほんとに保存しておきたいと思った記事は、テキスト化して残しておこう。
 その方がかさばらないしね。
 でも、私の手元にだけ置いておくのもちょっともったいない。
 ……じゃあブログに載せましょう!

 ということで、今回から始めます。
 昔の雑誌から、私が面白い、興味深いと感じた記事を転載するシリーズ。
 (実は最近、似たようなことやってるんですけどね。「CREA」92年9月号から、当時の参院選と、捕鯨問題の記事を転載しました)

 当面は「SAPIO」からの紹介です。
 「SAPIO」は私は年に2〜3回しか買わないので、その数少ないバックナンバーからの紹介となりますが……。

 今日は久々に「細切れぼやき」もあります。1個だけですが、最後まで見てって下さいね〜(^o^)


 全文起こしここから____________________________

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「SAPIO」2001.9.26号
特集【韓国「反日症候群」の正体】より

<非「反日」>
朴正煕・元大統領の次女ほか勇気ある韓国人がいまだから明かす

日韓マスコミが無視し続ける「日本統治」を直視する静かなる「肉声」

文・写真/ルポライター 井上和彦

 マスコミによってひたすら伝えられる韓国の反日はじつは「つくられた」部分が多い。日ごろはその声が伝えられることのないサイレント・マジョリティはどういう意見を持っているのか。日本の植民地統治を是々非々で考えようとする韓国人たちの衝撃の発言、これまで封印されてきたこれらの声を今こそ日韓両国は深く冷静に受け止めるべきではないか。
 
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「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(4)終

 イザベラ・バード著「朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期」(時岡敬子訳/講談社学術文庫)から、19世紀末の朝鮮に関する興味深い記述を引用でお届けするシリーズ、第4弾。最終回です。

※過去記事
 8/9付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)
 9/13付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(2)
 9/28付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(3)

 閔妃殺害事件の記述が終わり、日清戦争の記述が再開します。その後は「断髪令」「露館播遷(ろかんはせん)」へと展開します。

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 こちらは「第三十六章 一八九七年のソウル」(p.544)に登場する南大門の写真です。
 クリックすると新規画面で拡大します。

 後で引用しますが、1897年のソウルは、バードが最初に足を踏み入れた1894年と比べ、ずいぶんマシになっていたんだそうです。


 以下、イザベラ・バード著「朝鮮紀行」の引用です。
 〈 〉内はフリガナ、[ ]内は訳註です。
 フリガナについては固有名詞以外の判りやすいものは省略しました。


 「朝鮮紀行」引用ここから_________________________

●正午にわたしたちは高陽〈コヤン〉に着いた。戸数三〇〇の貧しい町で、かつては立派であったと思われるかなり大きな郡庁もくずれかけている。ここをはじめ平壌〈ピヨンヤン〉までのどの郡庁所在地でも、二〇人から三〇人の日本兵が庁舎に寝起きしていた。住民たちは三世紀前の遺産である憎しみから(引用者注:秀吉の朝鮮出兵のこと)日本兵を嫌っているが、彼らに対してはなにも言えないでいる。日本兵がきちんと金を払ってものを買い、だれにも危害を加えず、庁舎の門外にはめったに出てこないことを知っているからである。(p.371)

●(松都〈ソンド〉にて。朝鮮第二の都市で開城〈ケソン〉ともいう)広い通りが一本あって、その広さは両側にならんだわらぶき小屋で狭められてはいるものの、この通りでは街は分かたれている。ここには定期市に似たざわめきと活気と小商いの光景があった。((中略))わらぶき小屋では低い台や地面に敷いたむしろの上に、ありとあらゆる朝鮮の必需品と贅沢品がならんでいる。そのなかにはイギリス製の雑貨もあれば、血を大量に含んだ牛の干し肉もある。朝鮮で屠殺した肉を見れば、だれだって菜食主義者にならざるをえない。ヤギの屠殺方法は小さな川で引っ張りまわるというもので、この方法だと癖のあるにおいが消えるといわれている。犬は首になわをかけて振りまわし、そのあとで血を抜く。朝鮮人の手にかかった仔牛の運命については前に述べた(引用者注:第2弾のp.223参照)。暑い日ざしの下ではせわしなくて汚く、哀れで不愉快な光景だった。(p.381-382)

●松都の宿屋はどこもひどく、親切にも李氏(引用者注:イ・ハギン氏。旅に同行した通訳)の友人がわたしに家を一軒貸してくれた。一部くずれてはいるものの、ふた部屋あってイム(引用者注:駐朝イギリス総領事ヒリアー氏の紹介で同行した英公使館の衛兵)とわたしが泊まれる。そこに滞在し、わたしは快晴の気候に恵まれた二日間をすごした。李氏が友人の家を訪ねがてら、松都の名所に案内してくれた。名所は半日でめぐることができ、上流階級の屋敷も何軒か訪問した。わたしの宿泊先はそれに比べてとても快適ではあったけれども、イギリス本国ならば上流階級の牛小屋にも劣りそうである! とはいえ、朝鮮は一年の大半がすばらしい気候に恵まれている。またわたしの宿泊先にかぎらず、どこもかしこもみすぼらしくてほこりとごみだらけというのは信じがたいほどではあっても、この町はかなり「裕福」なほうである。給水のひどさは話にならず、あらゆる種類のごみと汚物が井戸の口まで堆積している。治安に関しては、大都市のまん中にあるさびしい横町で、外国人女性が英語のひと言も話せない朝鮮人兵士ひとり以外従者がまったくいなくても、無事暮らしていけるという事実は多くを物語る。朝鮮人兵士はそうしようと思えば、わたしの喉をかき切り金を奪って逃げることもできるのである。金のありかも簡単にわかるにちがいない。なにしろわたしの家には鍵というものがないのであるから!(p.382-383)

朝鮮の官僚は大衆の生き血をすする吸血鬼である。わたしたちはすでに京畿道〈キヨンギド〉との境である塔●(引用者注:山ヘンに晃)〈タプコゲ〉を越え、黄海道〈フアンヘド〉に入っていた。政府官僚の大半は、どんな地位にいようが、ソウルで社交と遊興の生活を送り、地元での仕事は部下にまかせている。しかも在任期間がとても短いので、任地の住民を搾取の対象としてとらえ、住民の生活向上については考えようとしない。(p.392)

●四〇人の日本兵が荒れはてた庁舎を風通しのよい宿舎として使っていた。通りを歩いていたとき、そのうちのひとりが私の肩に手をかけ、国籍と、いつこの地に着いてどこへ行くのかをたずねた。礼儀にやや欠けるとわたしは思った。部屋にもどると一〇人ばかりの日本兵がやってきて徐々に戸口をふさぎ、戸を閉められないようにしていまにも部屋のなかへ入りそうになった。きちんとした身なりの警察官がわたしに帽子を掲げて会釈し、李氏の部屋に行ってわたしがどこから来てどこへ行くのかを尋ねた。そして李氏の返事を聞いて「わかりました」と答え、ふたたびわたしに帽子を掲げた会釈をして部下もろとも引き上げた。このような家宅訪問は何度か受けた。たいがいとても丁重だったとはいえ、質問のしかたは、こちらには当然その権利がある、この国の支配権はいったいだれにあると思っているのだといわんばかりだった。この町でも、またほかのどこでも、人々は日本人に対して激しい嫌悪感をいだきながらも、日本人が騒ぎを起こさず、なにを手に入れるにもきちんと金を支払っていることを認めざるをえない。日本兵の来ているのが洋服でなかったなら、部屋を取り囲んだ彼らをわたしは無礼だとは考えなかったことだろう。(p.392-393)

●平壌は猛襲を受けたわけではない。市内では実際の戦闘はなく、敗退した清国軍も占領した日本軍も朝鮮を友邦として扱っていた。この荒廃のすべてをもたらしたのは、敵ではなく、朝鮮を独立させ改革しようと戦った人々なのである。「倭人〈ウオジエン〉(矮人〈こびと〉)(引用者注:日本人のこと)は朝鮮人を殺さない」ことが徐々に知られるようになり、おおくの住民はもどってきた。(p.403)

日本軍が入ってきて、住民の大部分が逃げだしたのを知ると、兵士は家屋の木造部をひきはがした。往々にして屋根も燃料やあかりに使った。そして床で燃やした火を消さずに去るので、家屋は焼失した。彼らは避難民が置いていった物品を戦闘後三週間で略奪し、モフェット氏宅ですら七〇〇ドルに相当するものが盗まれた。氏の使用人が書面で抗議したが、略奪は将校も現場にいて容認されていた。このようにして朝鮮で最も栄えた都の富は消えてしまったのである。(p.403-404)

そのあとの占領中、日本軍は身を慎み、市内および近郊で得られる物資に対してはすべて順当な代金が支払われた。日本兵を激しく嫌ってはいても、人々は平穏と秩序が守られていることを認めざるをえず、また、日本軍が引き上げれば、訓練隊*1がのさばることもよくわかっていた。訓練隊は日本人から教練と武器を受けた朝鮮人の連隊で、すでに人々に暴力をふるったり物を盗んだりしはじめており、行政当局に公然と反抗していた。(p.404)
*1 引用者注:1895年10月の閔妃殺害事件により日本の影響力が薄れた後、ロシアの将校がこの朝鮮人部隊に軍事教育を施すこととなる。ちなみに、日本の前はアメリカの軍事顧問がこの任に当たっていた。

●一八九四年九月一五日の午後、左将軍(清国軍の将軍)は奉天出発時の五〇〇〇人から脱走したり死んだりで隊員の大幅に少なくなった軍を率いて最後の出撃を行った。七星門をくぐり、急勾配の坂を平野に向かってジグザグにくだり、そして門からおそらく三〇〇ヤードと離れていないところで斃〈たお〉れたのである。朝鮮人の話によれば、部下が将軍の遺体を運びだそうとしたが、その途中で銃撃に遭い、あとにつづいた修羅場で遺体はどうなったかわからないという。将軍が斃れたと思われる地点にはまわりに柵をめぐらした端正な碑が日本人の手で立てられており、その一面にはこう記してある。
  <奉天師団総司令官左宝貴ここに死す。>
 またべつの面にはこうも記してある。
  <平壌にて日本軍と戦うも、戦死。>
 敵軍の名将に捧げた品位ある賛辞である。

●城内の小高い丘の上に、日本人は戦没者一六八名の慰霊塔を建てた。《軍神堂》を病院に変え、日本人負傷兵はいうまでもなく手厚く看護されたし、また清国軍負傷兵も、当然その多くが負傷がもとで死んでしまったあとであるとはいえ、べつの建物できめ細かな看護を受けた。清国軍兵士の死体を放置した報いはいまわしい形で起こり、発疹チフスが突如流行した。この病気が日本軍に対していかに猛威をふるったかは、済物浦〈チエムルポ〉の日本軍墓地にある墓碑の長い列からある程度推測できる。(p.409)

●わたしが徳川〈トクチヨン〉にいるときに郡守が任地にもどってきて、人々はこのできごとにある程度関心を示した。雑卒が船着場付近の土手にならんで警笛を鳴らし、白服に黒い紗の上着をまとった四〇人の部下と二、三人の歌姫が輿〈こし〉に乗った郡守を出迎え、官庁まで輿といっしょに走る。数人の男たちが冷ややかに見物していた。これほどさもしい随行団は考えられないほどだった。
 地方行政官のなかにはこういった従者を何百人も持つ者があり、その費用は疲弊したこの国が払うのである。当時はひとつの道〈ド〉に四四人の地方行政長官がおり、そのそれぞれに平均四〇〇人の部下がついていた。部下の仕事はもっぱら警察と税の取り立てで、その食事代だけをとてみても、ひとり月に二ドル、年に総額で三九万二四〇〇ドルかかる。総勢一万七六〇〇人のこの大集団は「生活給」をもらわず、究極的に食いものにされる以外なんの権利も特典もない農民から独自に「搾取」するのである。その方法をわかりやすく説明するために、南部のある村を例にとってみる。電信柱を立てねばならなくなり、道知事は各戸に穴あき銭一〇〇枚を要求した。郡守はそれを二〇〇枚に、また郡守の雑卒が二五〇枚に増やす。そして各戸が払った穴あき銭二五〇枚のうち五〇枚を雑卒が、一〇〇枚を郡守が受け取り、知事は残りの一〇〇枚を本来この金を徴収した目的のために使うのである。こういった役得料を廃止し郡守を減給する勅令が最近発布された。徳川の庁舎の荒廃ぶりと一般民の住まいの不潔さとみすぼらしさは、まさしくここにきわまれりといったところだった。(p.423-424)

●出発前、ほこりとごみと汚物にまみれた宿の庭にすわり、うつろに口をぽかんと開けた、無表情で汚くてどこをとっても貧しい人々に囲まれると、わたしは羽根つきの羽根のように列強にもてあそばれる朝鮮が、なんの望みもなんの救いもない哀れで痛ましい存在に思われ、ロシアの保護下に入らないかぎり一二〇〇万とも一四〇〇万ともいわれる朝鮮国民にはなんの前途もないという気がした。ロシアの統制を受ければ、働いただけの収入と税の軽減が確保される。何百人もの朝鮮人が精力的に働く裕福な農夫に変身しているのをわたしはシベリア東部で見ているのである。(p.425)

●(徳川から平壌への道中、戛日嶺〈アルリヨン〉にて)気候はすばらしく、雨量は適度に多く、土壌は肥え、内乱と盗賊団は少ないとくれば、朝鮮人はかなり裕福でしあわせな国民であってもおかしくない。もしも「搾取」が、役所の雑卒による強制取り立てと官僚の悪弊が強力な手で阻止されたなら、そしてもしも地租が公正に課されて徴収され、法が不正の道具ではなく民衆を保護するものとなったなら、朝鮮の農民はまちがいなく日本の農民に負けず劣らず勤勉でしあわせになれるはずなのである。しかしこの「もしも」はあまりにも大きい! どんな産業分野にせよ、勤勉に働けば利益の得られることが保証されれば、無気力無関心な人々も変身するはずである。そのための改革は日本によって行われてきたが、日本も自由裁量権があたえられているわけではなく、また改革に着手した(とわたしは心から信じる)ものの、役割を果たし調和のとれた改革案を立てるには未経験すぎた。それに改革案が成立したにせよ、それを実行すべき官僚たちがほとんど例外なく因習と慣例の両方から堕落してしまっている。改革は断続的断片的で、日本は枝葉末節にこだわって人々をいらだたせ、自国の慣習による干渉をほのめかしたので、朝鮮を日本の属国にするのが目的だという印象を、わたしの見るかぎり朝鮮全土にあたえてしまった。(p.432)

●(前項のつづき)旅行者は朝鮮人が怠惰であるのに驚くが、わたしはロシア領満州にいる朝鮮人のエネルギーと勤勉さ、堅実さ、そして快適な家具や設備をそろえた彼らの住まいを見て以来、朝鮮人のなまけ癖を気質と見なすのは大いに疑問だと考えている。朝鮮じゅうのだれもが貧しさは自分の最良の防衛手段であり、自分とその家族の衣食をまかなう以上のものを持てば、貪欲で腐敗した官僚に奪われてしまうことを知っているのである。官僚による搾取が生活の必要物資を購〈あがな〉う分にまでも不当におよび、どうにも耐えられなくなってはじめて、朝鮮人は自力で不正をただす唯一の手段に訴えるのであり、これは清国の場合と似ている。その手段とは許さざるべき醜悪なその郡守を追い払ったり、場合によっては殺してしまうことで、最近評判になった事件では、郡守の側近をまきを積んだ上に乗せて焼き殺すというのがあった。庶民の暴動はへんに挑発されると遺憾な暴力行為に発展することがなきにしもあらずとはいえ、一般的には正義に基づいており、また抗議としては効果的である。(p.432-433)

●(前項のつづき)搾取の手段には強制労働、法廷税額の水増し、訴訟の際の賄賂要求、強制貸し付けなどがある。小金を貯めていると告げ口されようものなら、官僚がそれを貸せと言ってくる。貸せばたいがい元金も利子も返済されず、貸すのを断れば罪をでっちあげられて投獄され、本人あるいは身内が要求金額を用意しないかぎり笞〈むち〉で打たれる。こういった要求が日常茶飯に行われるため、冬のかなり厳しい朝鮮北部の農民は収穫が終わって二、三千枚の穴あき銭が手元に残ると、地面に穴を掘ってそれを埋め、水をそそいで凍らせた上に土をかける。そうして官僚と盗賊から守るのである。(p.433)

●(順川〈スンチヨン〉の郡庁内の部屋で)兵士、書士、庁舎の雑卒、両班と文人階級の男たちにそこら辺のひま人が集まり、大声を張り上げるわ戸の紙を破るわであるから、わたしはうんざりする二時間を味わった。清国と同じようにおよそ野卑で不作法な文人階級の男たちを先導とする朝鮮人の野次馬は、ただただ耐えがたい。しまいにわたしは女たちの住まいのほうへこっそり引っ張っていかれたが、そこではまたべつの飽くことを知らぬ好奇心のえじきになった。
 朝鮮の下層階級の女性は粗野で礼儀を知らず、日本のおなじ階層の女性のしとやかさや清国の農婦の節度や親切心からはおよそほど遠い。(p.435)

●女性の蟄居は五〇〇年前、社会腐敗がひどかった時代に家族を保護するために現王朝が導入した。それがおそらく今日までずっとつづいてきたのは、ある朝鮮人がヒーバー・ジョーンズ氏に率直に語っているように、男が自分の妻を信頼しないからではなく、都市社会と上流階級の風紀が想像を絶するほどに乱れ、男どうしが信頼し合えなくなったからである。かくして下層階級をのぞき、女性は老いも若きもすべてが法よりもつよい力を持つしきたりにより、家の奥に隠されている。(p.437)

●ダレ神父[『朝鮮教会史序論』の著者]によれば、故意と偶然のいかんによらず、よその男と手が触れ合っただけでも、娘は父親に、妻は夫に殺され、自害する女性すらいたという。またごく最近の例では、ある下女が女主人が火事に遭ったのに助けだそうとはしなかった。その理由は、どさくさのなかでどこかの男性が女主人にさわった、そんな女性は助けるに値しないというのである!
 法律も女性の住まいまではおよばない。自分の妻の部屋に隠れている貴人は謀叛罪の場合をのぞき捕えることができない。また家の屋根を直す際は、隣家の女性が目に触れないともかぎらないので、あらかじめ近所に修理する旨を知らせなければならない。七歳で男女はべつべつになり、女の子は厳しく奥にこもらされて結婚前は父親と兄弟以外、また結婚後は実家と嫁ぎ先の親族以外、男性にはまったく会えなくなる。女の子は極貧層でもみごとに隠れており、朝鮮をある程度広く旅行したわたしでも、六歳以上とおぼしき少女には、女性の住まいでものうげにうろうろしている少女たちをのぞき、ひとりも出会ったことがない。したがって若い女性の存在が社会にあたえる華やぎはこの国にはないのである。(p.438-439)

●郡庁所在地の慈山〈チヤサン〉でわたしたちは徳川〈トクチヨン〉へ北上したときの分岐点にもどった。((中略))町の人々からは、清国兵は情け容赦なくものを盗む、ほしいものは金も払わずに奪い、女性に乱暴を働く*2という悲痛な被害の話をきいた。前にわたしたちは慈山の隣村ウチンガンの渡し場で大同江〈テドンガン〉を渡ったが、この村は朝鮮人が恐怖に駆られて逃げだしてしまい、五三人の清国人が占拠して重要な駐屯地となっていた。日本の偵察兵ふたりが対岸にあらわれて発砲すると、清国軍派遣隊はばらばらに逃げだしたものである! 慈山でもほかと同様、人々は日本人に対してひとり残らず殺してしまいたいというほど激しい反感を示していたが、やはりほかのどこでもそうであるように、日本兵の品行のよさと兵站〈へいたん〉部に物資をおさめればきちんと支払いがあることについてはしぶしぶながらも認めていた。(p.441)
*2 引用者注:1937年(昭和12年)に始まった支那事変においても、支那軍は掠奪・暴行・強姦などやりたい放題だった(しかも自国民に対して)。このあたりは、「強制徴募」により支那軍の兵隊にさせられた陳登元氏の著作「敗走千里」に詳しい。「敗走千里」の内容は拙エントリー8/23付:GHQ焚書「敗走千里」支那軍の実態を参照。

キリスト教伝道団は平壌でははかばかしい成果を得ていなかった。平壌はきわめてゆたかできわめて不道徳な都市だった。宣教師が追いだされたことは一度ではきかず、キリスト教はかなりな敵意をもって排斥されている。つよい反対傾向がはびこり、市街には高級売春婦の妓生〈キーセン〉や呪術師があふれ、富と醜行の都という悪名が高かった。メソジスト派伝道団は活動を一時中断し、長老派は六年かけて二八名の改宗者を数えるのみだった。それから日清戦争が起きて平壌は破壊を受け、住民は流出、商業は壊滅、六万とも七万ともいわれた人口が一万五〇〇〇に減り、わずかなキリスト教徒も逃げだしてしまった。
 戦争以降はとても大きな変化があった。二八名が洗礼を受け、中流階級の最も悪名高い放蕩者、あまりに不道徳でだれにも相手にされなかった男たちが清く正しい生活を送りはじめたのである。教えを受けている洗礼志願者が一四〇人おり、受洗に先立つ長期修練の対象となっていた。(p.444)
 
●庶民は通りや家の前や宿屋で人と会う。そしてお互いの商売、仕事、ふところ具合など、かなりぶしつけと思われることについてえんえんと尋ね合ったり最新のニュースを仕入れ合ったりするのである。どんな男もできるかぎりニュースを集め、あるいはつくる。耳に入れたことをうそと誇張で潤色する。朝鮮は流言蜚語〈ひご〉の国なのである。朝鮮人は知っていること、というより耳にしたことを人に話す。ダレ神父によれば、朝鮮人は節度の意味を知らず、それでいながら率直さにはなはだしく欠ける。男たちは仲間とお互いの家を行き来して毎日を暮らす。家庭生活はない。奥の住まいにいる女たちは同性の客を迎え、また娘たちもそこにいる。男の子は幼いころから男の住まいに移され、そこで耳に入る会話から、自尊心ある男は女を蔑視せねばならないと学ぶのである。(p.453)
 
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「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(3)

 イザベラ・バード著「朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期」(時岡敬子訳/講談社学術文庫)から、19世紀末の朝鮮に関する興味深い記述を引用でお届けするシリーズ、第3弾です。

※過去記事
 8/9付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)
 9/13付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(2)

0909chousenmap.jpg【バードが旅したルート。画像をクリックすると新規画面で拡大します】

 「朝鮮紀行」の著者イザベラ・バードはイギリス人女性。1894年(明治27年)1月から1897年(明治30年)3月にかけ、4度にわたり朝鮮を旅行しました。

 当時の朝鮮は開国直後でした。
 1894年8月に日清戦争が勃発、翌年には下関条約により長年支那の「属国」だった朝鮮は独立します。
 列強各国の思惑が入り乱れ、まさに激動の時代にあった朝鮮の貴重な記録ということになります(ちなみに日韓併合成立は1910年)。

 この第3弾では、日清戦争や朝鮮王室にまつわる記述をメインにお送りします。政治色が強く、やや重たい感じですが、ついてきて下さいね(^^ゞ


 バードが最初に朝鮮入りした1894年初め頃、すでに東学党(主体は農民)は動き始めていました。本格的な内乱となったのは春で、6月、清が朝鮮側の要請により軍を派遣。それを見た日本も軍を派遣します。
 戦争が迫り来る中、バードはイギリス副領事の忠告によって済物浦〈チエムルポ〉(ソウルの海港。漢江〈ハンガン〉の河口にある)をあとにせざるをえなくなります。

 バードは秋の旅に備えた荷物を元山〈ウオンサン〉に置いたまま日本の肥後丸に乗船、最初の寄港地である清国の芝罘〈チーフー〉(現在の山東省、煙台)に降り立ちます。
 そして牛荘〈ニユーチヤン〉(現在の遼寧省、営口)を通り満州に到着、そこで二カ月過ごします。満州については「同じ清国でも漢族の住む地域と異なった点がいろいろあって興味深かった」と記しています。
 また、この時代からすでに満州(当時ロシア領)には約三万世帯の朝鮮人が暮らしていて、バードは「その大半は一八六八年以降、政治的混乱と官吏による搾取のために祖国を離れた人々である」と述べています。

 満州の後は奉天、長崎、ウラジオストクでの記述を経て、その後いよいよ王室——李氏朝鮮の第26代王である高宗、高宗の王妃である閔妃(韓国では明成皇后と呼ぶ)、高宗の父である大院君を中心とした——の記述に入ります。

 閔妃殺害事件(乙未事変)のくだりでは日本批判がかなり多くなっています。バードは閔妃に何度も謁見し好感を抱いていたため、それが大きく影響したものと思われます。

 とはいうものの、バードの記述には閔妃を批判した部分、日本を擁護した部分も少なからずあります。
 「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)でも紹介した通り、そもそもバードは日本による朝鮮の改革そのものは大変評価しているのです。

 その改革をことごとく潰したのが、他ならぬ閔妃でした。


 閔妃殺害事件の経緯をざっと振り返りますと——

 閔妃は自分の一族の政権登用を乱発し、大勢の大院君派を国政から追放、流刑あるいは処刑にするなど強権を振るっていました。
 また、宗主国の清を後ろ盾とし朝鮮の改革を嫌っていた事大党を重用したことにより、政治改革はことごとく閔妃によって潰されてしまっていました。
 やがて閔妃は親露に傾いていったため、それに不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国にいっそう警戒されることになります。

 このような情勢の中、1895年(明治28年)10月8日、大院君を中心とした開化派武装組織によって、景福宮にて閔妃は暗殺されました。
 この時、日本公使・三浦梧楼が暗殺を首謀したという嫌疑がかけられました。日本は国際的な非難を恐れ、三浦らを召還し裁判にかけましたが、首謀と殺害に関しては証拠不十分で免訴となり、釈放。

 朝鮮政府はこれとは別に李周会、朴銑、尹錫禹の3人とその家族を、三浦らの公判中の同年10月19日に犯人およびその家族として処刑しています。
 さらに閔妃暗殺の現場にいたと考えられる高宗(閔妃の夫)は、露館播遷(ろかんはせん。1896年2月11日から約1年間、高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことをいう)の後、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)、禹範善(訓錬隊第二大隊長)ら6名の処刑を勅命で命じています。

 が、事件の全容は未だ明らかになっておらず、現在も論争が絶えません。ただ、日本政府による計画的な策謀でなかったことは判明しています。

 「朝鮮紀行」の閔妃殺害事件に関する記述が、学術的に価値があるのかどうか私は知りません。ただ、少なくとも当時の雰囲気が読み取れるという意味で、それなりに貴重な資料ではないかと思います。


 以下、イザベラ・バード著「朝鮮紀行」の引用です。
 〈 〉内はフリガナ、[ ]内は訳註です。
 フリガナについては固有名詞以外の判りやすいもの(「流暢」「狡猾」など)は省略しました。

※なお、この第3弾では「訓練隊」という名称が何度も登場しますが、これは日本人が教官の朝鮮人部隊です。


 「朝鮮紀行」引用ここから_________________________
 
東学〈トンハク〉党は朝鮮の官軍を何度か打ち負かしており、朝鮮国王は逡巡を重ねたすえ、清に援軍を要請した。清はこれに対して即座に応じ、一八九四年六月七日、朝鮮へ自軍を送る旨、日本に通告した。両国とも天津条約により、当時のような状況下では派兵できる権利を同等に有していたのである。同日、日本は清に対してみずからも進軍の意志があることを明らかにした。清国軍葉〈ヨー〉[志超〈チーチャオ〉]提督は三〇〇〇の兵を率いて牙山〈アサン〉に上陸し、また日本軍は済物浦〈チエムルポ〉とソウルを武力で占領した。
 急送外交文書では清は二度朝鮮を「わが国の属国」と呼んでおり、これに対して日本は、大日本帝国政府は朝鮮を清の属国と認めたことは一度としてないと答えている。(p.265)

●七月二五日、輸送船高陞〈コウシン〉号がイギリス国旗を掲げて一二〇〇名の清国兵を運ぶ途中、日本の巡洋艦浪速〈なにわ〉に撃沈されて多くの人命が失われ(引用者注:当初イギリスで対日批判が起こったが、真相が判明するとともに日本側の正当性が認められた)、その四日後には日本軍が牙山の戦いで清国軍を撃退した。七月三〇日の時点ですでに朝鮮は清との協定を破棄すると宣告したが、これはすなわち自国に対する清国の宗主権をもはや認めないと言っているのと同じである。八月一日、宣戦が布告された。これら一連のできごとの結末については、いや、できごと自体についてすら、わたしたちはほとんどなにも知らず、七月上旬まで奉天は「悠々自適の道」を歩んでいた。(p.266)

●八月一日に宣戦が布告されると、事態は急速に悪化した。日本が制海権を完全に掌握していたため、清国軍は満州を通って進軍せざるをえず、吉林、斉斉哈爾〈チチハル〉その他の北部都市から集めた、訓練を受けていない満州族兵士が一日一〇〇〇人の割りで奉天を通過していった。満州族兵士は南進する途中、手当たり次第にものを略奪し、料金も払わずに宿屋を勝手に占領し、宿の主人をなぐり、キリスト教へのというより西洋文明への反感からキリスト教聖堂を荒らした。外国人に対する憎悪は奉天から四〇マイル離れた遼陽〈リヤオアン〉で最高潮に達し、満州族兵士は聖堂を破壊したあとスコットランド人宣教師のワイリー氏を撲殺し、「洋鬼子」と親しいからという理由で行政長官に危害を加えた。(p.267-269)

●奉天に向かうすべての道路は(引用者注:清国軍の)兵士でごった返した。行進とはほど遠いだらだらした歩き方で、一〇人ごとに絹地の大きな旗を掲げているが、近代的な武器を装備している兵はごくわずかしかいない。ライフル銃一丁持たない屈強な体つきの連隊すらある! ((中略))正確無比の村田式ライフル銃を持っている日本軍を相手に、このような装備の兵を何千人も送りだすのは殺人以外のなにものでもない。兵士もそれを知っていた。だからこそ西洋人を見ると「こいつら洋鬼子のせいでおれたちは撃たれにいくんだ」ということばが出てくるのであり、総督の宮殿に大群で押しかけて護衛から撃つぞと威嚇されたとき、「どうせ朝鮮で撃たれるのだから、ここで撃たれてもかまわない」と言い返したのである。(p.269-270)

●戦時中であり、船が戦争にとられているうえ状況も不穏のため外洋交通は徹底的に乱れていた。大海戦が勃発するといううわさが毎日のように飛ぶなかで、何週間かかけてウラジオストク行きの汽船を探したが、ようやく見つかったのは、乗客ひとりだけならとしぶしぶ応じてくれたドイツの小型船しかなかった。そして悪天候にもまれた船で快適とはほど遠い五日間をすごしたのち、ちょうど菊が満開の季節を迎え、真っ赤な紅葉の燃えるように美しい長崎で、わたしはそれまでとはがらりと変わった気持ちのいい一日を味わった(引用者注:清国の芝罘から満州へ向かうのにバードが利用したこのウラジオストク行きの船は、長崎にも立ち寄るコースだった)。照明もあり、清潔で、完璧なまでに治安もよく、道路には穴ぼこもごみの山もない——この矮人〈こびと〉と人形のこぎれいな町は、清国のほとんどの都市ででも外国人居留地の外に出さえすれば見られる、吐き気を催すような不潔さやみすぼらしさとは、胸のすく対照を示していた。
 清国人は支配民族の一員たる雰囲気を漂わせて長崎の通りを歩きまわっていた。彼らに要求される唯一の手続きは在留登録で、それさえしてあれば、憂さなどとはまったく縁のないようすで商売にいそしみ、大事な買弁〈ばいべん〉[売買仲介人]の呼び出しを行っている。清国では日本領事の要請ですべての日本人が国外へ逃げだし、人身・物品の双方に危害を受け、はぐれた「矮人〈ウオジエン〉」が町で見つかろうものならまちがいなく殺されているはずなのに、である。(p.274-275)

●(ウラジオストクの港で)しばらくのあいだことばもちんぷんかんぷんななかで何隻ものサンパンを渡りあるいたすえ、わたしはよく笑い大声で話す、身なりの汚ない朝鮮人の若者多数に陸まで運んでもらった。この若者たちはわたしの所持品をめぐって仲間どうしかなり強烈なブローをかわし合ったあと、わたしの荷物を肩にかついでばらばらな方向へ逃げてしまった。わたしはけんかのあいだ必死で握っていたカメラの三脚とともに残され、途方に暮れた。そう遠くないところにドロスキー[ロシアで使われる屋根なし軽装四輪馬車]があり、四、五人の朝鮮人がわたしを捕まえて声高な朝鮮語で話しかけながら、それぞれ自分の馬車のほうへ引っ張っていこうとした。そこへコサックの警官が来て彼らをどやしつけ、いさめてくれた。波止場には何百人もの朝鮮人がいて、騒々しいのと強引な点をのぞけば、済物浦〈チエムルポ〉に上陸したようなものである。(p.277-278)

朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた。ところが(ロシアの)沿岸州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。みずからを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行のよさは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる。(p.307)

●シーズン最後の日本の汽船でウラジオストクを発ったわたしは、元山〈ウオンサン〉で二日すごした。元山はほとんど変わっておらず、変化といえば、町並みのむこうの山が雪をかぶっていることと、朝鮮人が戦時中に日本人の払ったとほうもない労賃で裕福になったこと、商取り引きに活気があること、木造の哨舎〈しょうしゃ〉に日本人の番兵が立って平穏な通りを警備していることくらいだった。戦時中は一万二〇〇〇人の日本兵が元山経由で平壌に向かったのである。つぎにわたしが上陸した釜山には二〇〇人の日本兵がいて、新しい浄水所ができ、丘の上にある軍墓地に立つおびただしい墓碑は、大量の日本兵が死んだことを示していた。(p.319)

●その前年(一八九四年)の冬の不況は終わっていた。日本は支配的立場にあった。この首都に大守備隊を置き、内閣の要人数名が国の名代として派遣され、日本の将校が朝鮮軍を訓練していた。改善といって語弊があるなら変化はそこかしこにあり、さらに変化が起きるといううわさがしきりにささやかれていた。表向き王権を取りもどした国王はそのような状況を容認し、王妃(引用者注:閔妃のこと)は日本人に対して陰謀をいだいているとうわさされたが、井上[馨]伯爵が日本公使を務めており、伯爵の断固とした態度と臨機応変の才のおかげで表面上は万事円滑に運んでいた。(p.322)

●(前項のつづき)一八九五年一月八日、わたしは朝鮮の歴史の広く影響を及ぼしかねない、異例の式典を目撃した。朝鮮に独立というプレゼントを贈った日本は、清への従属関係を正式かつ公に破棄せよと朝鮮国王に迫っていた。官僚腐敗という積年の弊害を一掃した彼らは国王に対し、《土地の神の祭壇》[社稷壇〈しゃしょくだん〉]前においてその破棄宣言を準正式に執り行って朝鮮の独立を宣言し、さらに提案された国政改革を行うと宗廟前において誓えと要求したのである。小事を誇張して考える傾向のある国王は自分にとってきわめて嫌悪を感じさせるこの警告をしばらく延期しており、式典の前夜ですら、代々守ってきた道をはずすことはならぬと祖先の霊から厳命される夢を見て、式典執行におびえていた。
 しかし井上伯爵の気迫は祖先の霊を凌駕し、北漢山〈プツカンサン〉のふもとの鬱蒼〈うっそう〉とした松林にある、朝鮮で最も聖なる祭壇において、王族と政府高官列席のもとに誓告式は執り行われた。(p.322)

●国王の宗廟誓告文
 ((中略))今後わが国は他のいかなる国にも依存せず、繁栄に向けて大きく歩を踏み出し、国民の幸福を築いて独立の基礎を固めるものとする。その途において、旧套〈きゅうとう〉に陥らず、また安直もしくは怠惰な手段を用いることなく、ただ現状を注視し、国政を改め、積年の悪弊を取りのぞいて、わが祖先の偉大なる計画を実行できんことを。((後略))(p.326)

●国政改革のための洪範一四カ条
一、清国に依存する考えをことごとく断ち、独立のための確固たる基礎を築く。
二、王室典範を制定し、王族の継承順位と序列を明らかにする。
三、国王は正殿において事を見、みずからら大臣に諮〈はか〉って国務を裁決する。王妃ならびに王族は干渉することを許されない。
四、王室の事務と国政とは切り離し、混同してはならない。
五、内閣[議政府]および各省庁の職務と権限は明らかに定義されねばならない。
六、人民による税の支払いは法で定めるものとする。税の項目をみだりに追加し、過剰に徴収してはならない。
七、地租の査定と徴収および経費の支出は、大蔵省の管理のもとに置くものとする。
八、王室費は率先して削減し、各省庁ならびに地方官吏の規範をなすものとする。
九、王室費および各省庁の費用は毎年度予算を組み、財政管理の基礎を確立するものとする。
一〇、地方官制度の改革を行い、地方官吏の職務を正しく区分せねばならない。
一一、国内の優秀な若者を外国に派遣し、海外の学術、産業を学ばせるものとする。
一二、将官を養成し、徴兵を行って、軍制度の基礎を確立する。
一三、 民法および刑法を厳明に制定せねばならない。みだりに投獄、懲罰を行わず、なにびとにおいても生命および財産を保全するものとする。
一四、人は家柄素性に関わりなく雇用されるものとし、官吏の人材を求めるに際しては首都と地方とを区別せず広く登用するものとする。(p.326-327)
 
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「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(2)

 イザベラ・バード著「朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期」(時岡敬子訳/講談社学術文庫)から、19世紀末の朝鮮に関する興味深い記述を引用でお届けするシリーズ、第2弾です。

 ※第1弾はこちら。
  8/9付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)

0908bird-chogori.jpeg これは「朝鮮紀行」158ページに掲載されている絵です(クリックすると新規画面で拡大します)。バードが撮影した写真をもとに画家が挿画用に描いたものです。

 キャプションには【朝鮮の母親の衣装】とあります。いわゆる「乳出しチョゴリ」というやつでしょうか。

 第1弾で掲載したソウルの「南大門路」の写真もそうでしたが、朝鮮史関連のサイトをよく回られている方でしたら、こういった朝鮮女性の衣装の写真や絵を一度はご覧になったことがあると思います。

 ——「朝鮮紀行」の著者イザベラ・バードはイギリス人女性。1894年(明治27年)1月から1897年(明治30年)3月にかけ、4度にわたり朝鮮を旅行しました。当時60代。

 当時の朝鮮は開国直後でした。
 バードが最初に朝鮮入りした1894年の8月に日清戦争が勃発、翌年には下関条約により長年支那の「属国」だった朝鮮は独立します。
 列強各国の思惑が入り乱れ、まさに激動の時代にあった朝鮮の貴重な記録ということになります(ちなみに日韓併合成立は1910年)。

 その他詳細は第1弾の前書き及び後書きをご覧下さい。

 以下、イザベラ・バード著「朝鮮紀行」の引用です。
 〈 〉内はフリガナ、[ ]内は訳註です。
 フリガナについては固有名詞以外の判りやすいもの(「流暢」「狡猾」など)は省略しました。


 「朝鮮紀行」引用ここから_________________________
 
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GHQ焚書「敗走千里」より支那軍の実態

【2017/1/26 原文を現代文に直したものをUPしました。
【現代文】GHQ焚書「敗走千里」より支那軍の実態


090822haisou.jpg 拙エントリー7/19付:GHQ焚書より 拉致され兵隊にされた中国人青年の体験で紹介したGHQ焚書の「敗走千里」を古書店で購入、読了しました。

 上記エントリーでは「支那事変(日中戦争)が起きて間もない中国での中国人による実体験記」と書いたのですが、実際に読んでみますとノンフィクションを元にしたフィクションというか、実体験をもとに脚色された小説という感じです。

 今日はこの「敗走千里」から引用を交えつつ内容を紹介したいと思いますが、その前に、著者の経歴及び出版に至るまでの経緯をざっと説明します。

 著者は陳登元氏という中国人です。
 お父さんが親日家で、彼自身も14〜5歳の頃に日本に留学し、日本語の先生である別院一郎氏に出会います。

 陳氏は中学から大学へと順調に進み、昭和13年の春には大学を卒業する予定でしたが、昭和12年に日支事変(支那事変)が勃発。
 故郷が心配になった彼はその年の8月、一旦帰国します。
 が、それきり何か月経っても帰って来ず、別院氏は心配します。

 そしたら昭和13年1月になって、別院氏のもとに陳氏から一通の手紙とともにどっさりと原稿が届きます。
 手紙によると、何と陳氏は実家にいたところを「強制徴募」により兵隊にとられてしまい、江南の戦線に送られたとのこと。
 そして砲煙弾雨の中の生活を送ること2カ月、重傷を負い病院に収容されたと。
 幸いにも快癒に向かい退院できるところまでこぎつけたので、病院を脱出したと。まごまごしていたら、また戦線に送られるからです。

 その後の経緯はよく分かりませんが、ともかく陳氏は上海にたどり着き、そこで原稿を書き上げたのです。陳氏の手紙の一節にはこうあったそうです。

 「僕は書きました。僕の経験し、見聞せる範囲内に於いての殆ど残らずを書きました。別送の原稿、お忙しくはありませうが一つ読んで下さいませんか。戦争とはこんなものです。僕は神の如き冷静さを以つて、純然たる第三者の立場から、凡(すべ)てを客観し、描写しました

 原稿を読んだ別院氏は「これは出版の価値、大あり」と判断します。
 陳氏の希望に沿って、別院氏は骨子を損ねない範囲で文章を修正し(日本語のおかしな箇所を訂正したり、中国の軍隊用語を日本の読者に理解しやすい用語に変更するなどし)、「敗走千里」は昭和13年3月20日、初版発行に至りました。

 陳氏による前書き(別院氏に送った手紙の一節)及び別院氏による後書きを文字起こしして下さっている方がいますので、詳細は以下を御覧下さい。
『敗走千里』陳登元著 別院一郎譚 自序魚拓
『敗走千里』陳登元著 別院一郎譚 後序魚拓

 ちなみに初版は4800部。その後非常に短い期間で版を重ね、私が入手したのは昭和13年6月15日12版です。西尾幹二氏によれば、約3万5000部売れたとのことです。
 定価は当時で1円40銭。但し、横に小さく「満州、朝鮮、台湾、樺太等の外地定価1円54銭」と記してあります。うーん、何かしみじみ来るなぁ(T^T)

 ——では、「敗走千里」の内容紹介に入ります。
 主人公はもちろん陳登元氏当人なのですが、著書の中では陳子明(チエンツミン)という名前に変更されています。

※青い文字が「敗走千里」からの引用箇所です。
※できるだけ原文に忠実に入力しましたが、旧漢字でパソコンでは出ないものは新漢字に直してあります(参考資料:新漢字・旧漢字対照表
※新漢字でも読みが難しそうなものはこちらの判断でフリガナをつけました。
※用語解説は基本的にWikipediaを参照しました。
 
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「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)

0908bird-chousen.jpg 今日はイザベラ・バード著「朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期」(時岡敬子訳/講談社学術文庫)から、19世紀末の朝鮮に関する興味深い記述を引用でお届けします。

 まだ読んでいる途中なんですが、すでに付箋いっぱい(^^ゞ。たぶんシリーズ化すると思います。

 引用を始める前に、いくつか補足を。
 まずはこちらの写真をご覧下さい。クリックすると新規画面で拡大します。
 
0908bird-soul.jpeg

 これは「朝鮮紀行」73ページに掲載されている写真です。
 キャプションには【ソウル、《南通り》[南大門路]】とあります。
 
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GHQ焚書より 拉致され兵隊にされた中国人青年の体験

【追記8/23】「敗走千里」読了。引用を交えた内容紹介はこちらのエントリーを。
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 ブログ更新のプレッシャーから解放された分、読書の時間が増えました。
 たまりにたまった未読の本を片っ端から読んでいるところです(^^ゞ

 そんな中、撃論ムック「世界を愛した日本」を読んでいたら、これはぜひ皆さんに知っていただきたいと思うくだりに行き当たりました。

 評論家の西尾幹二氏が連載論文の中で、GHQ焚書の一つである「敗走千里」という本を紹介されているのですが、その内容がちょっとすごいんです。
 「敗走千里」は、支那事変(日中戦争)が起きて間もない中国での中国人による実体験記です。

 やや引用が長くなりますが、当時の中国軍の状況や中国兵の気質などがよく分かるので、ぜひお読みになって下さい。
 
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