2011.03.28 Monday 19:31
くっくり
「地元の人たちの助けがなかったら、私たちはもうここにはいなかった」——宮城県女川町で、中国の遼寧省大連市から来た研修生、衣亜男さんたちは涙を浮かべてこう話した。
人口約1万人の女川町は、住民のおよそ半分が現在も行方不明。津波に襲われた町は廃墟に近い。だが100人近い中国人研修生はみな難を逃れた。地元の人たちの助けがあったからという。
女川町のうに販売の老舗である佐藤水産で研修中の中国人20人は11日、地震が発生したとき会社の宿舎近くに逃れた。しばらくして同社の佐藤充専務が「津波が来るぞ」と駆け寄り、研修生たちを高台の神社に連れていった。避難させると、佐藤専務は家族を捜しにまた宿舎の方に戻っていった。しかし「宿舎も専務も、あっという間に津波に呑み込まれてしまうのが見えた」と衣さんはすすり泣きながら話す。
専務の兄の佐藤仁社長も、津波で自宅を失ったにもかかわらず、その晩は研修生たちを泊まらせるため、山の手に住む友人の家を一時借りられるよう駆け回ってくれたという。研修生の管理にあたっている杜華さんは、「震災の2日目、私を見た社長の第一声は、『20人全員無事だな!』でした」と話す。
女川町の鮮魚小売業、岡清の中国人研修生も、社長と部長が地震発生後すぐに山中の温泉旅館に避難場所を見つけ、研修生5人を車で送ってくれたと話す。「そのとき、彼らは自分の子どもさえまだ見つかっていなかった」と大連市出身の曹晶さんは語った。
曹さんたちはその後、現地で一番大きな避難所に移った。避難所の中国人研修生らには1日に2−3食がきちんと支給されている。曹さんは「こんな非常時でも地元の人たちが分け隔てなく扱ってくれた感動は一生忘れない」と語った。(編集担当:阪本佳代)
昨日の午後から、今に至るまで
私の夫の電話は鳴りっぱなし。
みなさんが、日本人である私のこと、
私の親戚、私の友人たちのことを心配して
電話を下さっている。
昨日から今に至るまで、テレビでは
なんども地震の様子が流れている。
新聞もそう。
(中略)
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