「たけしの教科書に載らない日本人の謎」仏教特集
2011.01.04 Tuesday 05:57
くっくり
来世で人を救おうという禅宗に対し、現世で人を救うべきと説いたのが日蓮。
日蓮は法華経という経典の中にこそ最高の真理があるとした。経典を信じることで救われると説いた。そして強烈な個性で教えを広めていった。
ところが、経済力が増えた寺は権力に対抗する武力を持つようになり、大名たちも手を焼くようになった。これでは大変ということで、寺を武装解除したのが豊臣秀吉。
全国みな仏教徒になったのが江戸時代。
徳川幕府は宗教反乱を恐れた。特にキリシタンを排除しなければならない。そこで寺請制度を作った。
これは国民は身分・職業に関係なく近くの寺に住民登録をするというもの。
寺請制度は幕府にもお寺にもメリットがあった。幕府は役人を使わずに手間が省けるし、お寺は確実に信者を得ることができる。
住民票はお寺が発行。出生届、住所変更、結婚、出稼ぎや旅行の際にも必ずお寺から証文をもらわなければならない。
こうすることで全国民を仏教という網で囲い込み、キリシタン信者や反乱分子を抑え込んだ。
今や葬式といえばお寺だが、江戸時代にはこれが大きな意味を持っていた。
誰かが死ぬとキリシタンではないか確認するのも寺の役目。今で言う役所の仕事をお寺がやっていたのだ。お寺は葬式と墓地を管理し、国民を把握しておく役目を担っていた。
だから、ある地域に曹洞宗のお寺があれば、そこの住民はみんな曹洞宗。引っ越したら、そこの宗派に問答無用で全員登録制。
寺子屋もできた。
お寺がこういう存在になったので、宗派同士の争いもなくなった。
その制度が大きく崩れたのが明治時代。新たな制度で戸籍を登録するようになり、お寺はお役ご免となったが、それでも墓の管理をごっそり変えるわけにはいかない。
今、お寺にお葬式とお墓が残っているのは、このような江戸時代の思惑があったから。たくさんの宗派が日本に残っているのはこのような歴史があったからなのだ。
◆最澄と空海
彼らがいなければ、日本仏教というのはかなり変わった形になっていたかもしれない。日本仏教のいちばん元になったような非常に大きなスケールのものを、平安時代の初めに広めた。
教科書の記述では、「最澄は天台宗を開き、空海は真言宗を開いた。ともに遣唐使として唐に渡り、日本で仏教を広めた」とある。
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