「たけしの教科書に載らない日本人の謎」仏教特集
2011.01.04 Tuesday 05:57
くっくり
それまでの仏教は、病気になったら薬師様というように、時と場合によって拝む対象を変えていたが、南無阿弥陀仏は阿弥陀様だけ。たった一人の神。それ以外はダメという考え方だから一神教的。
貴族の力が衰え、武士が台頭しつつある動乱期には、釈迦の教えも届かなくなったという末法思想が広まっていた。死後の世界に救いを求めた。
念仏だけを唱えれば救われるという法然の教えは民衆の心に響いた。
さらにそれを進めたのが親鸞の浄土真宗。
親鸞は自ら妻帯し、悪人でも救われると説いた。いわゆる悪人正機説。
但し、ここで言う悪人とは、犯罪者という意味ではなく、私たちはみな悪人という認識に基づいて、その認識を持った者こそが救われるという意味。
このように、念仏さえ唱えれば誰でも極楽浄土に行けるというので、それまでエリート層のものだった仏教がどんどん民衆に広まった。
鎌倉時代、仏教にさらに大きな変化が。禅宗が広まったのだ。
そのキーマンは栄西と道元。
宋に渡って仏教を学んだ彼らは、当然、日本にない物を持ち帰ろうと考えた。それが禅。最澄らの時代にはなかったニューウェーブ。仏教の常識を打ち破ったのである。ちなみに栄西は臨済宗。道元は曹洞宗。
栄西は京に入って布教しようしたが、彼は京都にとっては抵抗勢力だった。それで栄西は京の影響の弱い鎌倉に。すると、鎌倉で政権を握る武士の倫理観に栄西の禅宗は大きく受け入れられた。
当時流行していた阿弥陀信仰はいわゆる他力信仰。それに対して禅宗は、自分の心身を鍛え上げることで自らの力で悟ろうというもの。
当時の武士に禅宗は合致した。武士はいつ有事があるか分からない。その時に混乱してはいけないので、そういう心と身体を作るために禅が役に立つと考えられた。
鎌倉幕府にも、ニューウェーブの宗教を使って京都に対抗していこうという意志があったに違いない。武士を束ねるのに良い宗教になるということで、臨済宗の寺が建てられ、武士に広まっていくことに。
かつて天台宗が国のエリート宗教であったように、鎌倉武士らにとって禅宗がエリート宗教になっていった。
武田信玄、上杉謙信、織田信長も禅宗。武士らにとって禅宗は圧倒的な思想だった。金閣寺、銀閣寺、龍安寺なども禅宗。能や華道、茶道といった文化も禅宗から生まれた。
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