「たけしの教科書に載らない日本人の謎」仏教特集
2011.01.04 Tuesday 05:57
くっくり
が、当時、朝廷では藤原氏が台頭。藤原氏の四兄弟は天皇と姻戚関係を結ぶべく、妹で光明子を聖武天皇の皇后にしようと働きかけていた。長屋王はこれに強く反対し、藤原氏と対立。
長屋王はサラブレッドで重要な政治的地位にいたため、藤原氏から恨みを買って蹴落とされたと思われる。
729年、長屋王が政府転覆しようとしているという密告があった。藤原四兄弟らが率いる軍勢は、これ幸いにと長屋王の邸宅を包囲。長屋王は弁明する余地も与えられぬまま自害。妻や子も後を追った。
しかし長屋王の死後、異変が相次ぐ。
「日本霊異記」によれば、長屋王の遺骨を土佐の国に移して葬ったところ、農民たちの変死が相次ぐようになり、このままでは国中の農民が死んでしまうので、埋葬場所を変えてほしいという嘆願書が役所に出された。これが日本最古の説話集に記された怨霊の記録。
さらに都では疫病が大流行。藤原四兄弟もわずか4カ月の間に次々と命を落とした。
この祟りに対し、聖武天皇が神道以上に頼ったのが仏教。
疫病の流行が止むことを祈願して各国に釈迦像を造り、大般若経を写すことを命じた。741年には全ての国に巨大な寺院を二つずつ造る国分寺創建を宣言。743年には大仏建立を発表。
よく教科書で、大仏は疫病が流行ったから造られたと書いてあるが、その疫病自体が長屋王の怨霊だと恐れられていた。
聖武天皇は大仏を建立して出家している。現職の天皇が出家するというのは大変な事件だった。国民は天皇は神だと思ってる。その神が出家して仏にぬかずいてしまう。これを見た国民は、仏というのはそういう存在なのかという風に見ただろう。
聖武天皇の孫の時代の桓武天皇の時代にも怨霊は生まれた。それは桓武天皇の兄弟である早良親王。
桓武天皇はある決意をする。当時、都は怨霊の跋扈する非常に危険な状態と考えられていた。その怨霊から逃れるために、794年、建設途中の長岡京を放棄し、平安京への遷都を発表。
このことが、最澄、空海の運命を変えていった。
実は、平安京の、魔が入ってくるといわれる「鬼門」の方角で修行をしていたのが最澄だったのだ。
802年、国費留学生として最澄の唐への派遣を決定。最新の仏教を学んで怨霊から親族や民を守ってもらうためだった。
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