2010.11.20 Saturday 02:58
くっくり
東南アジアをはじめとしたアジアの近隣諸国もまた、日本とともに働き、日本の繁栄と技術から学びたいと思っているのです。日本の新しい技術を学ぶことによって、域内全体が繁栄することは間違いありません。
「日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想」より
日本植民地時代の35年間に、朝鮮の人口は確実は足取りでほぼ2倍に膨れ上がっている。これは何を意味するのか。
朝鮮人人口 百分率
1910(明治43)年 1312万8780人 100.0パーセント
1922(大正11)年 1720万8139人 131.1パーセント
1934(昭和09)年 2051万3804人 156.3パーセント
1942(昭和17)年 2552万5409人 194.4パーセント
1945(昭和20)年 2900万人(推定) 220.9パーセント(推定)
これにはいろいろな要因が考えられる。(1)疾病の予防ならびに医療制度の向上、(2)豊富とは言わぬまでも食糧の普遍的供給、(3)総督府の誠実な農村振興ならびに治山治水政策の奏功、(4)産業化への離陸、というのが僕の推測である。
この中でも、実業家で後に野口財閥を形成する野口遵(したがう)氏が、咸興(かんきょう)に隣接する興南(こうなん)に建てた朝鮮窒素肥料会社[硫安の生産力で世界有数。興南における化学コンビナートの中核]の貢献は特筆に値する。
野口氏は1925年(大正14年)から5年の歳月を費やし、咸興の北にある鴨緑江(おくりょくこう)上流を堰(せ)き止め、日本国内にもなかった37万キロワットの巨大発電所を作る。それに続いて白頭山(はくとうさん)、豆満江(とまんこう)など各15万キロワットの発電所を建設した。彼はこの電力を利用して空中窒素から硫安を作るなど、総合的化学工業化を果たしたのである。
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