外国人から見た日本と日本人(21)

2010.11.20 Saturday 02:58
くっくり



 東南アジアをはじめとしたアジアの近隣諸国もまた、日本とともに働き、日本の繁栄と技術から学びたいと思っているのです。日本の新しい技術を学ぶことによって、域内全体が繁栄することは間違いありません。

■朴贊雄(パク・チャンウン)=韓国人。1926(大正15年)京城(現ソウル)生まれ。1939年(昭和14年)京城師範学校付属第2小学校卒業。1945年(昭和20年)旧制京畿中学卒業。その後ソウル大学法学部、ニューヨーク大学行政大学院を卒業。1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)まで陸軍通訳将校として朝鮮戦争参戦。延世大学講師や仁荷大学副教授などを経て、1975年(昭和50年)カナダに移住。トロント韓国民主社会建設協議会を設立。著書に「朴正熙、全斗煥の乱」などがある。戦後、韓国の民主化を追求し続けた知識人。2006年5月死去。
「日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想」より

 日本植民地時代の35年間に、朝鮮の人口は確実は足取りでほぼ2倍に膨れ上がっている。これは何を意味するのか。

             朝鮮人人口     百分率
 1910(明治43)年  1312万8780人  100.0パーセント
 1922(大正11)年  1720万8139人  131.1パーセント
 1934(昭和09)年  2051万3804人  156.3パーセント
 1942(昭和17)年  2552万5409人  194.4パーセント
 1945(昭和20)年  2900万人(推定)  220.9パーセント(推定)

 これにはいろいろな要因が考えられる。(1)疾病の予防ならびに医療制度の向上、(2)豊富とは言わぬまでも食糧の普遍的供給、(3)総督府の誠実な農村振興ならびに治山治水政策の奏功、(4)産業化への離陸、というのが僕の推測である。

 この中でも、実業家で後に野口財閥を形成する野口遵(したがう)氏が、咸興(かんきょう)に隣接する興南(こうなん)に建てた朝鮮窒素肥料会社[硫安の生産力で世界有数。興南における化学コンビナートの中核]の貢献は特筆に値する。

 野口氏は1925年(大正14年)から5年の歳月を費やし、咸興の北にある鴨緑江(おくりょくこう)上流を堰(せ)き止め、日本国内にもなかった37万キロワットの巨大発電所を作る。それに続いて白頭山(はくとうさん)、豆満江(とまんこう)など各15万キロワットの発電所を建設した。彼はこの電力を利用して空中窒素から硫安を作るなど、総合的化学工業化を果たしたのである。

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