中国政府の感謝状に「沖縄県八重山郡尖閣諸島」
2010.09.20 Monday 19:49
くっくり
「諸君!」2006年2月号 掲載
永久保存版 歴史講座
【もし中国にああ言われたら——こう言い返せ】
「尖閣、そして沖縄までは中国の領土」と言われたら
フォトジャーナリスト・山本皓一
〈前略〉
魚釣島に日本人が住み着くようになった経緯はこうだ。1884年、冒険心に富んだ福岡出身の商人・古賀辰四郎は、人跡未踏の尖閣諸島に探検隊を送り込んで調査を行った。「魚釣島」と称されるとおり、周辺海域の魚影は濃く、とくに鰹の大きな群れが島の近場を回遊し、人間に警戒心を持たないアホウドリは簡単に獲れた。これは将来有望だと判断し、古賀は魚釣島に移住開拓を図るのである。
古賀が開拓に着手するまで、尖閣諸島に関してはどの国も詳しいことを知らなかった。
ただ、古賀らが移住する13年前の1871年に「牡丹社事件」が起こっている。この事件は、宮古島の貢納船(納税品を運ぶ船)が暴風雨で遭難して台湾南部に漂着したのだが、「牡丹社」という原住民の村落に助けを請うたところ、救助されるどころか逆に乗組員66人のうち54人が惨殺されてしまった事件である。
日本政府は中国(清)に対して謝罪と賠償を求めたが、中国政府は「台湾は化外の民」であり「教化の及ばぬ地」であるからと拒否した。当時の中国政府は、台湾でさえ「(中国の)支配が及ばぬ地」と宣言していたのである。ちなみにこの事件は1874年に日本帝国初の海外出兵「征台の役」に発展する。
古賀辰四郎にとって尖閣諸島は「絶海の無人島」であり、100年以上も後になって日中間の領有問題になるなどとは夢にも思わなかったであろう。
魚釣島で古賀の事業は成功した。豊富な鰹などの海産物は缶詰や干物に加工され、また無尽蔵とも思えるアホウドリなど海鳥の羽毛採取は莫大な利益をあげた。当時、義和団事件(1900年)や日清・日露戦争が勃発したが、寒冷地が戦場となったため、帝国陸軍にとって寒中行動の克服は焦眉の急であった。古賀が生産した缶詰や羽毛は軍隊食や防寒衣類の必需品となり、巨額の特需が発生した。いわば「国策事業」として、古賀の会社も発展を遂げたのである。
尖閣諸島開拓の父ともいえる古賀辰四郎は、シベリア出兵が開始された1918年に62歳の生涯を終えた。以後、太平洋戦争で沖縄近海の制海権が奪われ、油や食料の輸送が困難となって島を引き払う終戦の直前頃まで、嫡男の古賀善次が事業を引き継いで発展させた。
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