2010.09.07 Tuesday 00:21
くっくり
「朝鮮紀行—英国婦人の見た李朝末期」より
日清戦争についての記述
一八九四年九月一五日の午後、左将軍(清国軍の将軍)は奉天出発時の五〇〇〇人から脱走したり死んだりで隊員の大幅に少なくなった軍を率いて最後の出撃を行った。七星門をくぐり、急勾配の坂を平野に向かってジグザグにくだり、そして門からおそらく三〇〇ヤードと離れていないところで斃〈たお〉れたのである。
朝鮮人の話によれば、部下が将軍の遺体を運びだそうとしたが、その途中で銃撃に遭い、あとにつづいた修羅場で遺体はどうなったかわからないという。将軍が斃れたと思われる地点にはまわりに柵をめぐらした端正な碑が日本人の手で立てられており、その一面にはこう記してある。
<奉天師団総司令官左宝貴ここに死す。>
またべつの面にはこうも記してある。
<平壌にて日本軍と戦うも、戦死。>
敵軍の名将に捧げた品位ある賛辞である。
〈中略〉城内の小高い丘の上に、日本人は戦没者一六八名の慰霊塔を建てた。《軍神堂》を病院に変え、日本人負傷兵はいうまでもなく手厚く看護されたし、また清国軍負傷兵も、当然その多くが負傷がもとで死んでしまったあとであるとはいえ、べつの建物できめ細かな看護を受けた。
「明治日本見聞録 英国家庭教師婦人の回想」(1918年出版)より
屋敷(引用者注:ハワードが7年間暮らした永田町の島津邸)の回りには広々とした気持ちのよい庭があったが、芝生は枯れきっていて、花壇は一つもなかった。この庭は家具同様に、子供向きに設計され、もっぱら気晴らしの場としてつくられたものだった。その隣には鞍馬やブランコのある大きな運動場があった。
ある朝、窓から外をのぞくと、芝生のあちこちに数人の背の低い老婆たちがいるのが目に入った。彼女たちは青い木綿の手拭いを頭に巻いていたが、それは色褪せた青い着物とよく釣り合っていた。そして、膝をついたまま、笑ったりお喋りしたりしていた。一体全体、何をしているのだろうと私は思った。彼女たちは草取りで、めいめい鋏(はさみ)を持ち、草を刈ったり雑草をむしったりしているのだとわかった。後で聞いたことだが、日本では草取りを年取った女たちの仕事に任せるのがごく当たり前のことで、まるで遊んでいて、何も仕事をしていないように見えたが、そう思ったのは間違いだったと悟った。彼女たちの仕事の出来映えは、まるで魔法を使ったかのように見事だった。
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