戦争賛美から米崇拝へ『朝日の変節』のルーツ「SAPIO」01.11.14号

2010.08.31 Tuesday 00:53
くっくり



 18日に発禁命令を受けた朝日新聞はすぐに、鈴木文四郎常務(のち、主筆兼編集責任担当重役。退職後、参議院議員、NHK理事)を中心にGHQに出向き、「朝日は決して占領軍の政策に対し批判的なのではない。そればかりか、我々は元来日本で最も自由主義的な新聞であり、GHQの日本改革政策に対しては全面的に支持する」と口頭で述べている。

 その後、口頭の説明だけでは不十分だと思ったのだろう。同じ主旨の内容をしたためた弁明書を参謀長に提出した。その際に最高司令官の閲読を希望してわざわざ添付したものが、この「戦争の責任 果たして如何」の社説だったのだ。

 朝日新聞は、ここから完全に転向する。擦り寄るべき権力者を、日本政府からGHQに切り替えたのだった。

GHQを利用して情報局を牽制

 この昭和20年9月の段階では、検閲を行なう主体はGHQオンリーではなく、まだ内閣情報局も機能していた。占領政策は基本的に間接統治で、憲法も法律も議会制度も戦前のままだったからだ。

 その情報局の検閲体制が崩れ、GHQが検閲の権限を奪い取ったのは、天皇陛下とマッカーサーの有名な会見記事がきっかけとなった。

 9月27日、天皇とマッカーサーとの会見は、旧アメリカ大使館の司令官公邸で行なわれた。そして翌28日、情報局はこの会見を記事にし、2人が並び立つ写真を掲載しようとしていた朝日、毎日、読売報知に発禁処分の命令を下した。既に印刷に入っていたので困った朝日の細川隆元編集局長(のち衆議院議員、評論家)は情報局の部長に会い、「宮内省がGHQの承認を得て許可した会見を掲載させないとは、どういうことだ」と詰め寄ったが、らちがあかない。そこで、今度はGHQに駆け込み「情報局は、内閣誤情報局だ、誤っている情報を流すところで、恥ずべき機関だ」と、ご注進した。すると社に戻って1時間も経たないうちにGHQは情報局に対して、発禁処分の差し止め命令を出した。これは、細川氏本人が『朝日新聞外史』(秋田書店)に書いている。

 GHQにしてみればマッカーサーとモーニングに威儀(いぎ)を正し直立不動の天皇が並ぶ写真が日本の新聞に掲載され、国民の目に触れることの意味は大きい。この訪問は「服従儀礼」であることを言外に示せたからである。それ以後、検閲は直接GHQが行なうことになり、メディアの検閲だけが直接統治となったのだ。したがって、権力者は日本政府ではなくGHQ、ということになる。朝日新聞は、擦り寄る相手を間違ってはいなかった。

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