【日韓併合】外国人から見た日本と日本人(19)

2010.08.02 Monday 20:34
くっくり



 しかし、19世紀後半になると、もはや外界と隔絶することも、時間をかけていることもできなくなった。日本人は妥協を許さない欧米人を締め出すことができなかった。欧米は自信をもっていた。科学と機械力で自信をつけた欧米人は、自分たちはアジア人やその他の「後れた」人種より本質的に優れていると確信して植民地に対していた。欧米の行動様式は欧米人が「正しい」と認めたものであり、それ以外の行動様式は「間違い」だった。欧米に順応すれば「進歩」であり、順応できなければ「反動」とされた。

 このように、日本の新しい指導者たちは、きわめて危険な状況のもとで、新しい文明をつくり始めたのである。日本には二つの選択肢しか与えられていなかった。一つは、欧米の要求に応(こた)えて、手工業と農業中心の経済から輸出型の工業偏重経済に移行することだった。同時に近代的軍事機構を確立し、極東における欧米の力の均衡政策に貢献する欧米型国家になることだった。もう一つの選択は、中国のような半植民地国家として留まるか、欧米のどこかの国の植民地になるか、であった。

 日本の指導者たちが、欧米型国家になることを選択したのは当然である。そのためには、政治と経済の中央集権化が不可欠だった。

〈中略〉私たちが戦中戦後を通じて、日本を非難する理由は、この中央集権的経済体制の発展が「全体主義」的であり、「戦争願望」をつくり出したというものである。しかし、当時の欧米列強はこの発展を歓迎していたのだ。文明の後れた韓国と中国に西洋文明の恩恵をもたらす国、近代的秩序と規律をもつ国家が必要だった。だから日本の近代化が求められたのだ。

 私たちは、日本が西洋文明の理想に反したことを非難している。しかし、日本が欧米社会に仲間入りさせられた歴史の真実をみるなら、日本が西洋の理想を学ばなかったなどとはとてもいえない。欧米列強こそ国際社会において自分たちの原則を守らなかったし、自分の国の中でさえ原則を実践していなかったのだから、そういう非難がどこから出てくるのか、理解に苦しむのだ。

○ヘレン・ミアーズ=アメリカ人。東洋学者。1920年代から日米が開戦する直前まで2度にわたって中国と日本を訪れる。1946年(昭和21年)に連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった。

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