日本統治を直視する韓国の静かなる肉声「SAPIO」01.9.26号
2010.07.27 Tuesday 00:26
くっくり
この遺作展を催したのは、韓国人青年の金満(キム・マン)氏だった。
彼は、韓国の人々に李方子妃殿下を理解してもらおうと、17年の歳月をかけて方子妃の手になる揮毫(きごう)や陶器を収集したのだと語ってくれた。
李王家の人になったとはいえ、元は日本の皇族だった方子妃の歴史評価に情熱を傾けた韓国人青年がいることを、是非とも知っておいていただきたい。
「方子妃殿下は、とくにこの『和』という文字をお好みになったようです。最も多くお書きになりました」
遺作展の会場で、方子妃殿下の遺墨に手を添えて流暢な日本語で話してくれたのは金寿姙(キム・スエム)女史(80)だった。
金女史は、方子妃殿下が創立した慈行会で1965年以来25年にわたって苦楽を共にした、方子妃殿下を最もよく知る一人である。いまも月2回の御陵詣を欠かさない金女史は回想する。
「方子妃殿下が亡くなられたとき、韓国人は皆悲しみに暮れました」
そして金寿姙女史はその思いを短歌に込めた。
殿下(ママ)逝きて 十歳の月日 陵(やま)の前 名残果さん 願はひとつ
金女史は、昨今の歴史教科書問題で、心ない人々から“親日派”のレッテルを貼られ、いわれのない嫌がらせを受けているという。
戦後、李承晩大統領は、李垠殿下に“民族の反逆者”という烙印を捺し、在任中その帰国を許さなかった。
朴正煕大統領が手本にした「明治維新」
李承晩の失脚後、1961年に政権を奪取したのは、日本の陸軍士官学校出身の朴正煕(パク・ジョンヒ)少将(当時)だった。
朴正煕大統領は、日本に暮らす病床の李垠殿下を気遣い、韓国政府のなすべき道義として李垠殿下夫妻に帰国を促したのである。しかしながら後のマスコミや日本の左翼政党は、韓国の近代化に心血を注いだ朴正煕を、その内なる清貧の正義を量ることなく、軍事クーデターの首謀者・独裁者として糾弾し続けた。またしてもマスコミの独善的な歴史裁判によって全てが醜聞の色に塗り替えられたのだ。
ところが今日では、朴正煕大統領は、歴代大統領の中で人気No.1を誇っているというから実に皮肉なものである。
現在、育英財団の理事長で、朴正煕大統領の令嬢(次女)・朴書永(パク・ショヨン)女史が品位あふれる物腰で語ってくれた。
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