外国人から見た日本と日本人(18)
2010.06.14 Monday 19:16
くっくり
ロシアのある北を向いて葬られているそうです。
1905年(明治38年)に日露講和条約批准により俘虜は帰国できたのですが、彼らはそれを待たず不幸にも亡くなったのでした。
松山に全国初の捕虜収容所ができたのは1904年(明治37年)。収容された俘虜の数は、延べ6000人に達したといわれています(当時松山市の人口は3万人)。
俘虜は寛大に扱われ、外出は自由で温泉、観劇などを楽しみ、松山市民との交流もさかんに行われました。当時の松山市民は、お遍路さんをもてなすように彼らを厚遇し、そのうわさはロシア兵の間に広まり、彼らは投降の際、「マツヤマ」と叫んだとまでいわれています。
実は当時、愛媛県も県民に対し「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して敗れた心情を汲み取って侮辱を与えるような行為は厳に慎め」との訓告を発していたのだそうです。
なお、ワシリー・ボイスマン海軍大佐についても感動的なお話があります。
ペレスベート号の艦長であった大佐は、艦を自爆して投降、1905年(明治38年)1月23日、松山市の大林寺収容所に収容されました。
日本側は、大佐という階級と負傷兵であることを考慮して、ロシアに送還しようとしたのですが、大佐は「兵卒と共にありたい」と拒み、それなら妻子を呼び寄せよ、と勧めましたが、これも謝辞したと伝えられています。
大佐は、同年9月に入院、その9日後の9月21日(収容後8カ月)に心臓病と胃癌で永眠しました。彼の葬儀は盛大をきわめ、ロシア陸海軍将兵をはじめ、「ロシア人の武士道」に感動した日本の官民も参列し、葬儀の列は数町も続いたといわれています。
こうした日本人側の好意に対し、ロシア俘虜側は会葬御礼の広告を地元の新聞に掲載するほどだったそうです。
※ロシア人墓地については、以下のHPで詳しく紹介されています。是非ご訪問下さい。
・たむ・たむ(多夢・太夢)さんのページ>ロシア人墓地(松山市)
・松山市ホームページ>ロシア人墓地について
他にも日露戦争といえば、旅順陥落後、乃木大将が投降したステッセル中将に礼節を尽くした話などが有名ですね。
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