2010.06.14 Monday 19:16
くっくり
「明治日本見聞録 英国家庭教師婦人の回想」(1918年出版)より
伊藤博文についての記述
日本を統治している現在の憲法は、大部分伊藤侯爵の起草したものである。彼は天皇陛下の深い信頼を受け、勅命によってヨーロッパに視察に赴き、西欧各国の立憲君主制を勉強したのである。
彼が公的生活から隠遁しようとした時、陛下は彼を朝鮮に送って統監に任命したが、それは日露戦争中のことであった。彼はその時すでに老境に入っていたので、この任命は彼にとって重すぎる負担であったに違いない。しかし、彼は敬愛する陛下のために喜んでこの仕事を引き受けたのである。
私が特別の計らいで彼の家を訪問したとき、彼の身の回りの質素なこと、そして、富を象徴するような飾り物が一切ないことに心を打たれた。
伊藤侯爵は現世の宝を崇拝する人ではなかった。彼が死んだとき、その遺産はほんのわずかしかなかった。われわれ一行が彼のところを訪れて歓迎を受けたとき、彼が大変親切で思いやり深く、その態度の慈愛に満ちていたことを、今でも目の当たりに思い浮かべることができる。
彼の朝鮮統監への任命には、困難かつ重要な仕事が付随していた。その一つは、若い皇太子[むしろ朝鮮の新皇帝というべきかもしれぬが]の教育の問題であった。
かかる偉大な人物が、暗殺者の手にかかって最期を遂げたことを思うと、ほんとうに痛ましいとしかいいようがない。
「イザベラ・バードの日本紀行(上)」より
江戸平野を旅行中の記述
翌朝七時にごはんも食べおわり、部屋はまるで泊まり客などだれもいなかったかのように、なにもないがらんとした部屋に戻りました。八〇銭の宿泊料が支払われ、宿の亭主と使用人が口々にサヨナラと言ってひれ伏し、わたしたちは人力車(クルマ)に乗り早足で宿をあとにしました。
最初の休憩地で、人がよくて親切ながらもとにかく醜いわたしの車夫が苦痛に襲われ、吐きました。粕壁で飲んだ水に当たったのが原因だと車夫は言い、そこに残りました。ありがたいことに向こうから実直に、自分と同じ条件をきっちり守る代わりの車夫を用意すると言い出してくれて、病気だからとチップを要求しませんでした。本当に親切で世話になったので、具合の悪いまま置いていくのはとても悲しいことでした。
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