江戸時代を見直そう(2)
2010.03.30 Tuesday 00:53
くっくり
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■芳賀徹(東京大学名誉教授)
先日あるところで芭蕉についてのアンケートがありました。「芭蕉をどのように考えるか、一言で述べよ」というので、私は「元禄日本の前衛詩人」と定義しました。日本の詩歌は、平安朝以来の和歌が支配的でした。ところが芭蕉は和歌の「雅の世界」に対して「俗の世界」を持ち込み、「雅」の伝統とまったく違う新しい詩の世界を切り開いていった。
芭蕉は近世に生きた人物ですが、私は最も現代的な詩人ではないかと思います。例えば、『奥の細道』の中に「暑き日を海に入れたり最上川」という有名な句があります。芭蕉は暑い七月の末に羽黒山、月山、湯殿山に登り、鶴岡をへて酒田に行き、最上川の河口に立った。暑い暑い一日が今終わって、暑い太陽を最上川の滔々たる流れが日本海のなかに押しやるようにして沈め、真っ赤な夕映えの下に涼しさが一気に広がってきた。まさに天地山川の互いにもんどり打つような壮大な劇を五七五の中に言い尽くした。これは断然現代詩です。
こういう句を読むと、北村透谷や島崎藤村なんて、やぼったくて読む気がしなくなる。大自然の原始の力を一挙につかまえる芭蕉のこの洞察力と表現力の強さに対抗し得る近代の詩人というのは、めったにいないのではないか。
我々がつくったとしても、せいぜい「暑き日の海に入りたり最上川」が限界。それでも俳句サークルのなかでは、天地人の天を取ってしまうでしょうね。
「明ぼのや白魚白きこと一寸」。白魚というのは、白い小さな、まさに一寸ほどの透き通るような、目玉が黒く見えているあの魚ですね。これは奥の細道の旅の前、時期は春先、桑名のあたりの海岸に立って詠んだものです。芭蕉はたぶん白魚を手に取って見たんでしょう。透き通るようなあの小さな魚がぴちぴちと自分の掌で踊っている。そしてその背後には、春の曙の空と海とが薄緑色にひとつになって広がっている。その爽やかで純潔な天地の光を集約して、今自分の手元にある小さな小さな生命体である白魚が跳ねている。「一寸」という表現によって、ぴちぴちとした生命の塊が掌で踊っている触覚までが伝わってくる。日本人には宗教がないなんて言われますが、「暑き日を海に入れたり最上川」でも、「明ぼのや白魚白きこと一寸」でも、天地に対する「アニミスティック」としか言いようのない深い共感と畏敬の念が伝わってきます。
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