北方領土の日によせて【将兵万葉集】(1)シベリア抑留者
2010.02.06 Saturday 01:51
くっくり
■あと十日あと一カ月とだまされて堪え忍び来し一年の間
■東の空に瑞雲横たわる祖国に栄あれとおろがみ祈る
(虜囚日記)
山宮正敬
神奈川県出身、陸軍二等兵、昭和二十年三月応召。
北支那派遣軍勤務、モンゴル共和国に抑留、二十二年に帰国。
著作「虜囚日記」。
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同僚の句会に出席出来ず病床にて……
■空前のシベリア句集編むべきは春の大和に編むべかりけり
(収容所(ラーゲリ)から来た遺書)
山本幡男
島根県出身、満州鉄道から応召、シベリアに抑留。
収容所で同僚のため萬葉集を講じ句会を作り文化活動に尽力。
抑留中に病死。
その遺書は数人の同僚が暗記し、又は肌につけて帰国し、
遺族に届けられた。その経緯は辺見じゅん氏著の
「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」に詳述。
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image[100206sibe.jpg]
【写真=シベリア上空】写真共有サイトSo-netフォトより「せとっこ」様 撮影。
昭和20年8月9日、満州にあった日本軍は突如強大なソ連軍の侵攻を受けました。
その前日、8日午後5時(日本時間午後11時)にソ連は日本に対し宣戦布告を行いました。モスクワでソ連のモロトフ外相が佐藤尚武駐ソ大使に布告を伝達したのです。
事態を知った佐藤大使は日本政府へ連絡しようとしましたが、ソ連側が電信を遮断、東京の政府に奇襲を伝える手段は残されていませんでした。
日本政府がソ連の対日参戦について知る前に、ソ連軍は満州に攻め込んだのです。
しかもこの時、日ソ中立条約が有効でした。ソ連政府は意図的に中立協定を侵犯したのです。
北海道北部までの獲得をもくろんだスターリンの命令により、ソ連軍は終戦後も侵攻を続けました。
日本軍は果敢にソ連軍と戦いました。たとえば千島列島北端の占守島では日本軍がソ連軍を大いに苦しめました(こちらのサイトをぜひご覧下さい)。
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