「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(1)

2010.01.03 Sunday 23:51
くっくり



 では、このような複雑な暦の作成は誰が行っていたのか?暦を作るには、高度な天文学の知識が必要なはず。
 それを当時唯一できたのが陰陽師だった。

 「陰陽師というのは天皇が任命するもので、他の人たちは暦を作ったりできない。最先端の天文学の技術知識が陰陽寮に集められる。そのような特殊な機関だった」(旧竹田宮家出身 慶應義塾大学講師 竹田恒泰)

 最先端の技術・知識は門外不出。
 奈良時代や平安時代、朝廷は陰陽師以外に暦作成の許可を与えなかった。
 そこにはある理由が。

 「日食、月食、彗星が現れるということは、天変地異の一種と考えられてきた。陰陽師が事前に日食や月食を予想することはすごいことだった。科学的知識がない時代だから、予想できるのは神の技だった。天皇の神格の部分を担保していく役割があった」(竹田恒泰)

 つまり、暦を司ることは絶対的な権力の象徴でもあった。
 そこで朝廷は1000年以上に渡り、陰陽師が作成する暦を管理。

 その暦が西暦に変わったのは明治5年のこと。
 西洋文明に追いつくため、欧米諸国と同じグレゴリオ暦を使うことになった。
 これにより日本の暦の基準は1000年以上使われてきた月から太陽に切り替わり、閏月というものがなくなり、1年が12カ月365日と決められたのだ。

 この改暦により今の形となったカレンダー。
 そして日本人がカレンダーを気にする、ある生活習慣が生まれた。


◆暦とカレンダー〜六曜〜

 弘暦社(こうれきしゃ)と呼ばれる明治政府から承認されたカレンダー製作会社があった。
 が、カレンダーが売れずに悩んでいた。
 月・火・水…を30日にあてはめて繰り返すだけだから、誰でも作れる。
 しかもそれまでの旧暦のように暦注(れきちゅう)に占いを書くことが禁止されていたので、カレンダーというものに興味がわかないのだ。
 暦注とは、昔の暦に細かく記されていた日時・方位の吉凶や運勢・占い。暦注は人々の生活に浸透していたのだ。

 「新しい暦に変わった時に、暦注というのは禁止された。そうすると暦がのっぺらぼうな、何もないものになる。非常に民衆も困るということで、何か載っけないといけない。今までのものは載せられないので、新しいものを導入しようという頭の良い人たちがいた」(国立天文台情報センター 暦計算室室長 片山真人)

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