「たけしの教科書に載らない日本人の謎2010」(1)
2010.01.03 Sunday 23:51
くっくり
「空間的に日本列島を支配する」とは?
少しこの時代の日本を整理してみると……。
時は646年、大化改新が起こり、以降、日本は天皇を中心とした政治が押し進められることになる。
そんな中、672年の壬申の乱を経て、673年に即位した天智天皇の弟・天武天皇が中国を見習って、全国的な律令制度の整備をスタート。
続く持統天皇の時代に、徐々に律令制度は日本全国に広まり、ついに天武天皇の孫である文武天皇が701年に大宝律令を制定。
この文武天皇の後を継いで即位した、母である元明天皇は大宝律令をさらに徹底するため、地方の状況を正確に把握する必要があった。そこで713年、風土記の編纂命令が全国に発せられたのだ。
風土記に必要な必須項目の最後の1つ「もとの地名を縁起の良い2文字に変える」は、現在の地名に影響を及ぼす重大な必須項目だった。
たとえば「木の国」という地名だったある地方は、木が多いから「木の国」と呼ばれていたが、「紀伊(きい)」に変わった。
実はそれまでは「音」に合わせて、適当な漢字をあてはめただけの地名が多く存在していた。それを元明天皇は風土記の編纂に合わせ、地名を縁起の良い2文字に変えることを命じたのだ。例えれば、今から1300年前に事業仕分けならぬ、地名仕分けが行われていたということか?
たとえば、こんな地名の変更があった。
「窪」(くぼんだ土地)→「久保」(久しく保つ)
「泉(いずみ)」→「和泉(いずみ)」(無理やり読まない「和」の字を足した。大阪府和泉市)
新潟のあたりを指す地名だった「越(こし)」。都(大和)から見て山を越したあたりにあったから大ざっぱにつけられた地名だったが、都から見て前にあたる部分、真ん中あたり、後ろにあたる部分に分けて、それぞれ「越前」「越中」「越後」に。
九州・阿蘇山の付近は活火山だった阿蘇山にちなんで「火の国」と呼ばれていたが、「火」を「肥」(肥沃な)に変え、さらに「肥前」「肥後」という2箇所の地名に。
粟の産地だった徳島県の北の地域は「粟」→「阿波」
荒俣宏氏によれば、三重県の「三重」も、由来は、ヤマトタケルが歩けなくなって杖をついて歩いて、足が「三重」に見えたという説が。
また、江戸は外国人由来の地名がけっこう多いそう。たとえば、かつて東京・日本橋にあった町名、按針(あんじん)町は、江戸時代に済んでいた三浦按針(ウィリアム・アダムス)が由来。
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