「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(4)終
2009.11.01 Sunday 00:21
くっくり
●わたしが徳川〈トクチヨン〉にいるときに郡守が任地にもどってきて、人々はこのできごとにある程度関心を示した。雑卒が船着場付近の土手にならんで警笛を鳴らし、白服に黒い紗の上着をまとった四〇人の部下と二、三人の歌姫が輿〈こし〉に乗った郡守を出迎え、官庁まで輿といっしょに走る。数人の男たちが冷ややかに見物していた。これほどさもしい随行団は考えられないほどだった。
地方行政官のなかにはこういった従者を何百人も持つ者があり、その費用は疲弊したこの国が払うのである。当時はひとつの道〈ド〉に四四人の地方行政長官がおり、そのそれぞれに平均四〇〇人の部下がついていた。部下の仕事はもっぱら警察と税の取り立てで、その食事代だけをとてみても、ひとり月に二ドル、年に総額で三九万二四〇〇ドルかかる。総勢一万七六〇〇人のこの大集団は「生活給」をもらわず、究極的に食いものにされる以外なんの権利も特典もない農民から独自に「搾取」するのである。その方法をわかりやすく説明するために、南部のある村を例にとってみる。電信柱を立てねばならなくなり、道知事は各戸に穴あき銭一〇〇枚を要求した。郡守はそれを二〇〇枚に、また郡守の雑卒が二五〇枚に増やす。そして各戸が払った穴あき銭二五〇枚のうち五〇枚を雑卒が、一〇〇枚を郡守が受け取り、知事は残りの一〇〇枚を本来この金を徴収した目的のために使うのである。こういった役得料を廃止し郡守を減給する勅令が最近発布された。徳川の庁舎の荒廃ぶりと一般民の住まいの不潔さとみすぼらしさは、まさしくここにきわまれりといったところだった。(p.423-424)
●出発前、ほこりとごみと汚物にまみれた宿の庭にすわり、うつろに口をぽかんと開けた、無表情で汚くてどこをとっても貧しい人々に囲まれると、わたしは羽根つきの羽根のように列強にもてあそばれる朝鮮が、なんの望みもなんの救いもない哀れで痛ましい存在に思われ、ロシアの保護下に入らないかぎり一二〇〇万とも一四〇〇万ともいわれる朝鮮国民にはなんの前途もないという気がした。ロシアの統制を受ければ、働いただけの収入と税の軽減が確保される。何百人もの朝鮮人が精力的に働く裕福な農夫に変身しているのをわたしはシベリア東部で見ているのである。(p.425)
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