「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(4)終

2009.11.01 Sunday 00:21
くっくり



●日本人が「改革」と呼ぶ新しい秩序は一八九四年七月二三日に日本兵が景福宮〈キヨンポツクン〉を武力で占拠した時点からはじまった。相ついで発布された(必ずしも施行はされなかったが)改革法令は日本公使が主導したもので、まもなく到着した日本人「顧問」が仔細に調整した。日本は朝鮮式機構の複雑多岐にわたる悪弊と取り組み、是正しようとした。現在行われている改革の基本路線は日本が朝鮮にあたえたのである。日本人が朝鮮の政治形態を日本のそれに同化させることを念頭に置いていたのは当然であり、それはとがめられることではない。(p.474)

●一八九四年七月、大鳥氏(引用者注:大鳥圭介)は官報を鮮明な活版印刷で発行するという有益な刷新を行った。そして翌年一月には漢字と「無知な文字」とされていた諺文〈オンムン〉[ハングル]の混合体が官報に用いられ、一般庶民にも読めるようになった。当時は《審議会》[軍国機務処]の決議が官報に掲載されるということ以外、めぼしい改革は行われなかった。その後日本の官報に近づくよう改革がなされ、官報の重要性という点では失ったものより得たもののほうが大きい。《承政院》の権力はしだいに小さくなり、名称も《承宣院》と改められた。内閣および《懲正裁判所》のメンバーは直接国王に上奏できるようになりはじめていた。一八九五年四月、日本式に近づける改革がさらに行われた。これは朝鮮人にとってはきわめて重大な変革で、官報の日付が「第一号——建国五〇四年四月一日木曜日」*6という具合に記されるようになったのである。(p.475-476)
*6 引用者注:日、月、火、水、木、金、土の曜日名が朝鮮でも使用を課されることとなった。

●狭量、マンネリズム、慢心、尊大、手仕事を蔑視する誤ったプライド、寛容な公共心や社会的信頼を破壊する自己中心の個人主義、二〇〇〇年前からの慣習と伝統に隷属した思考と行動、視野の狭い知識、浅薄な倫理観、女性蔑視といったものは朝鮮の教育制度の産物に思われる。

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