「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(4)終

2009.11.01 Sunday 00:21
くっくり



●(前項のつづき)これにつづき、同日、何千人もの人々が断髪令撤回の布告文を読んでいる一方で、これまで数度にわたりその座に就いてきた首相(引用者注:金弘集)と農工商務大臣が捕らえられ、街頭で斬首された。怒り狂った暴徒は首相を「まげ」失墜の張本人と見なし、残虐きわまりないやり方で死体を切りきざみ侮辱した。べつの閣僚は日本兵に助けられ、そのほかの謀叛者は逃亡した。新内閣が設立され、監獄の扉が開かれて囚人が罪人も無罪の罪の者もひとしく解放された。またすでに日本人一名が一般大衆の激怒のえじきとなって死亡しており、日本人に危害を加えてはならないという厳命が国王から布告された。そして日が暮れるまでに過去六ヶ月間に発布された勅命の大半が撤回され、「まげ」は勝利をおさめた。(p.469)

●(前項のつづき)王妃のつよい影響力と反逆的将校の粗暴な支配から解放された朝鮮国王がいかにその自由を用いたかは、ここに記すまでもない。王宮脱出直後から国王は「ロシア公使の手中にあるたんなる道具」になるだろうというのがおおかたの見方だったが、それはみごとにはずれ、一年とたたないうちに、ウェーベル公使が口をはさんで国王の政治的手腕のまずさをカバーしてくれないだろうかと期待する声が大いに高まったほどであった。公使がなぜ国王に干渉しまいと決意したかは、いまにいたるまで謎となっている。(p.469-470)

●一八九六年七月、税関長J・マクレヴィ・ブラウン氏が勅命により国庫の支出管理権を授かった。氏は財政腐敗という複雑な問題に焦点をあてて悪弊の一掃に取り組み、大きな効果をあげた。
 九月には日本の保護下で組織された内閣〈ネカク〉にかわり一四名のメンバーで構成する議政府〈ウイジョンプ〉が設けられた。これは旧体制にある程度もどる変化だった。
 日本がその隆盛時に悪弊を改めるために行った試みは大部分が廃止された。国内は不穏で東学〈トンハク〉党にかわり「義兵」が出現した。地方長官職その他の職位を売買する有害きわまりない習慣は多少抑制されていたが、宮内大臣をはじめ王室の寵臣は破廉恥にもこの習慣を再開した。また国王自身、潤沢な王室費がありながら、公金を私的な目的に流用し、安全な住まいにおさまってしかも日本人その他の支配から自由になると、さまざまな面で王朝の因習に引き返してしまった。王権を抑制する試みがあったにもかかわらず、国王の勅命が法であり国王の意思を絶対とする絶対君主制にもどってしまったのである。一方、日本は徐々に撤退し、また撤退を余儀なくされ、日本が朝鮮で失った影響力はことごとおくロシアの手に渡った。とはいえその変化の利点はさだかではなかった。(p.471-472)

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