「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(4)終
2009.11.01 Sunday 00:21
くっくり
事態はさらに悪化し、一八九六年二月一一日、極東全体がセンセーショナルなニュースに唖然とした。「朝鮮国王が王宮から抜けだし、ロシア公使館に移った」*4というのである。(p.465-466)
*4 引用者注:露館播遷(ろかんはせん)。1896年2月11日〜1897年2月20日。高宗(李氏朝鮮の第26代王)がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことを言う。詳細はWikipediaを参照。
●安全な身となった国王は長いあいだ手から離れていた大権をふたたび取りもどすと、以来少しも抑制しなかった。典型的オリエンタリズムにあふれた勅書二点の全文をつぎにご紹介する。ふたつとも王宮脱出後数時間で市内じゅうに掲示されたものである。
【勅書】
((略))
【兵士への勅書】
わが国は悲運にして、毎年のごとく謀叛の徒に苦しめられてきた。現在朕はあらたな陰謀を告げる文書を有している。それゆえ朕はロシア公使館に居を移した。諸外国の代表がすべて集まっている。
兵士よ! 朕を警護せよ。汝は朕の子供である。過去の紛争は謀叛の輩らの悪事によるものであった。汝はすべて大赦され、責任は問われない。心安らかに職務を全うせよ。謀叛の首謀者すなわち趙羲淵〈チヨフイヨン〉、禹範善〈ウポムソン〉、李斗●(●=王ヘンに黄)〈イトウフアン〉、李範来〈イポムネ〉、李軫鎬〈イチンホ〉、権●鎮(●=さんずいに榮)〈クオニョンジン〉*5は見つけ次第斬首し、朕の観覧に供せよ。
汝兵士はロシア公使館にて朕に仕えよ。
健陽元年二月一一日 玉璽〈ぎょくじ〉
*5 引用者注:趙羲淵(当時軍部大臣)、禹範善(訓錬隊第二大隊長)、李斗●(訓錬隊第一大隊長)、李範来(訓錬隊副隊長)、李軫鎬(親衛第二大隊長)、権●鎮(当時警務使)、この6名は閔妃殺害事件の犯人とされたものの特赦になっていた。が、著者バードは彼らについてなぜか一切言及していない。この引用文に登場するのみである。
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