外国人から見た日本と日本人(13)

2009.07.26 Sunday 03:11
くっくり



 台湾人はそうした歴史の事実を忘れることはない。

■蔡焜燦(サイ・コンサン)=台湾人。1927年(昭和2年)日本統治下の台湾・台中州清水に生まれる。1942年(昭和17年)に台湾人にも志願兵制度が適用され、志願者が殺到する中、1945年(昭和20年)に少年航空兵として陸軍航空学校に入学。敗戦後、台湾で体育教師、後に実業家に転身。半導体デザイン会社「偉詮電子股分有限公司」会長など歴任。「親日家」を超える「愛日家」と自称し、老台北(ラオ・タイペイ)の愛称で親しまれている。
撃論ムック「世界を愛した日本」【日本精神(リップンチェンシン)が台湾に遺したもの】より

 我々の世代は今でもよく昔を思い出して話をしますが、内地から来たどの先生方も、台湾人の子供達を自分の子供のようにかわいがってくれて、まるで自分の子供みたいに接してくれました。戦後、日本と台湾が自由に行き来できるようになったとき、ひとつのブームになったのが戦前の先生の奪い合いです。台湾に赴任した先生も、先生が東京から千葉、千葉から埼玉と転勤するように、台湾でも台北から台南そして台中と各地を転々としました。そのため一人の先生にたくさんの台湾人の教え子がいるので、一度かつての日本人の先生が台湾に来るとなると、奪い合いが始まるのです。

 一度先生と再会すると、先生を懐かしがって、話をするだけでなく、帰り際に小型トラックに一杯、お土産を差し上げたりしました。

 その先生は当時既に九〇歳近かったのですが、その先生がぽろぽろと泣いていて、私たちも目を真っ赤にしていたのを覚えています。

 あのときの先生の顔、私は忘れることができません。日本人の先生方は本当に一生懸命勉強を教えてくれた。本当の親のように接してくれた。日本が戦争に負けて、しばらく会うことができませんでしたが、やっと会えたときの感動は、言葉にすることができませんでした。

■蔡焜燦(サイ・コンサン)=台湾人。1927年(昭和2年)日本統治下の台湾・台中州清水に生まれる。1942年(昭和17年)に台湾人にも志願兵制度が適用され、志願者が殺到する中、1945年(昭和20年)に少年航空兵として陸軍航空学校に入学。敗戦後、台湾で体育教師、後に実業家に転身。半導体デザイン会社「偉詮電子股分有限公司」会長など歴任。「親日家」を超える「愛日家」と自称し、老台北(ラオ・タイペイ)の愛称で親しまれている。

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