皇室制度を守ることは日本の独自性を守ること

2006.04.02 Sunday 02:15
くっくり


 仁徳陵の生き字引のような堺市博物館の学芸科主幹、樋口吉文さんによれば、古くは十五世紀末の文書にこの古墳を「仁徳廟」と呼んでいた記録が残っている。

 戦前まで奉賛会があり、市民がこぞって参拝した。昭和の初期、この陵の東側に阪和線が開通したとき、人家もまばらな東南角近くにわざわざステーションが設けられた。「仁徳御陵前駅」である。その後百舌鳥駅と改められたが、堺市民や大阪から来る人たちの参拝のためだった。

(中略)

 天皇陵は大阪府だけでも十を超える。それなのに仁徳天皇陵だけが特別な敬愛を受けてきた。その背景には、仁徳天皇がその名の通り徳の高い「聖帝」として伝えられてきたことがありそうだ。

 日本書紀に有名な話がある。

 天皇は難波に高津(たかつ)宮を造った。ある日、高殿に上ってみると、どこからも、かまどを炊く煙が見えない。「民は貧しくて食事を作ることもできないのか」と嘆いた天皇は三年間課役を免除する。もともと質素だった宮殿は荒れるにまかせ、ぜいたくを絶った。

 三年後、再び高殿に絶つと煙が立っている。天皇は「私もこれで豊かになった」と述べる。皇后が「宮殿は荒れ放題なのにですか」と尋ねると、「民が豊かになるのが私が豊かになることだ」。

 大阪平野の開拓や公共事業にも先頭に立った。大阪湾からの海水の逆流を防ぐための水路を開き、「茨田(まむた)の堤」を築き洪水から田畑を守った。
 みごとな「聖帝」である。史実云々よりも、古代の日本人がこれだけの政治の理想像を持っていたことに敬服する。

(中略)

 こうした仁徳天皇聖帝説には反論もある。「人民に強制労働させてあんな大きな陵墓を造らせた」という。すべてを支配・被支配でみる例の史観である。
 だが、樋口さんは「それは違います」と真っ向から否定する。

 「発掘調査で古墳の造り方を調べると、一人が簡単に持てるほどの土を、長い年月をかけて積み上げているのです。強制的に大掛かりな土木工事をした形跡はありません」。その上で「一種の宗教行為だったと思います。自分たちの幸せを守ってくれた人を、守るんだという」と語る。

 細々とでも、「民のかまど」が語り継がれているようで、うれしかった。

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