【動画】外国人から見た日本と日本人(12)

2009.07.12 Sunday 00:46
くっくり



7-13より
 「(日本人が台湾に来て)3年目(1898年)5月8日は住民去就決定日。これは台湾住民の国籍選択猶予の最後期限で、実際に台湾を退去した人は総人口の0.2%にも満たなかった。私はこれが重要だと思う。彼らはちゃんと人道を守る。日本人になるか、もしくは台湾を出て中国人になるかを選択させた。(猶予は)2年間あった。もし国民党がやってきたらそんなことはできない」
 「日本人は台湾を統治する時、軍人の他に多くの専門家もやってきた。一番有名なのは伊能嘉矩だ。彼は1895年に台湾に来て、10年にわたって台湾を一周した。原住民の村の隅々までも含めて一周してから、彼は台湾文化誌を書いた。彼が書いた本は未だに台湾の民俗学、人類学、各地の調査報告の入門書だ。10年だけで彼は台湾についての基礎研究を築いた。後に私たち台湾人学生らの若者は、彼らの教育をもとにその方向へ歩いた」
 「4年目すなわち明治31年、児玉源太郎総督と後藤新平行政長官が台湾に就任。児玉は日本政府の要職と兼任するので、後藤が総督府の事実的な責任者になった。二人は台湾に深く貢献したので、李登輝元総統は日本に後藤新平賞を贈った。私は云いたい。これらの歴史を台湾人は知っているか?」(日本人もほとんど知りません(T^T))

8-13より
 「5年目となる1899年、総督府医学校すなわち現台湾大学医学院の前身が開校した。彼らが来たのは?1895年だ。1899年には総督府医学校が開校した。つまり4年で台大病院が設立された。そこには主に台湾人青年を入学させた」
 「1938年、私たちの台湾銀行はアモイの新聞社に広告を掲載した。しっかり見て下さい。台湾銀行の支店はどこでしょう?キールン、新竹を除いて、大陸の上海、福州、アモイ、そしてアメリカのニューヨーク、イギリスのロンドン、日本の神戸、大阪、東京、横浜にあった。当時の台湾銀行は世界30ヶ所以上に支店を置いた。今の銀行より大きいじゃないか。そして国際化した。孫文の革命資金は台湾銀行に借金したものもある」

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