2006.06.05 Monday 23:12
くっくり
南の海に発した黒潮は台湾を経て日本列島を北上する。簡福源氏(74)の風貌(ふうぼう)は、四国・徳島県の海辺に暮らした父方の祖父を思い出させた。古(いにしえ)の親戚(しんせき)であったのかもしれない。
台北の中心街から南へ、車で1時間ほど、烏来(ウライ)郷という山間の自然公園の近くに簡氏のお宅があった。初対面である。簡氏はしかし、誤解を恐れず、自らが抱く、遙(はる)かなる「日本」への思いを語り続けた。
食卓にはタケノコのいためものや川エビの空揚げなど山の料理が並べられ、とっておきの高粱(コーリャン)酒で私たちは杯を重ねた。
「日本という国がもたらしてくれたもの。それが、今日の私の根本なのです」
簡氏は昭和6年(1931年)、日本統治下の台湾に生まれた。6歳の時から6年間学んだ「烏来教育処」を卒業後、日本陸軍軍属になった。ニューギニアで日本兵として戦死した叔父の「仇(かたき)をとってやる」と思いつめた。
戦後、日本人は兵も一般人も帰還していった。なぜ僕らも帰らないのかとおじいさんに聞くと、内地の人とは違うという。「ああ、僕は日本人じゃあなかったのか」
簡氏は台湾人である。日台の歴史を知らない場合、ふつう、簡氏のような「日本」への過度にも思えるいれ込みようを示されれば、心地よさよりもむしろ、とまどいを感じる日本人もいるだろう。
台湾はスペインとオランダによる占領を経て、17世紀末からは清朝の支配を受けた。日清戦争後の1895年、下関条約によって日本統治下に入った歴史がある。
日本が台湾のために国内と同様に帝国大学を設け、鉄道を敷き、水利工事を行うなど当時の国力としては精一杯の力を尽くしたのは事実だが、半世紀にわたる日本統治のすべてが善政だったと言い切れまい。しかし、少年期に「山田正太郎」を名乗った簡氏は日本語による基礎教育に感謝し、「日本精神は誠の精神。まっすぐで正しい」と説き続けるのである。
厳密に言えば、簡氏は「高砂族」と総称された台湾先住民の一つ、タイヤル族に属する。族語で温泉を意味するウライの部族長一族の出身で、戦後は20代で台北県議にも当選した。その後、町村長に相当する烏来郷長を60歳すぎまでつとめた。そんな簡氏はまた「日本人と産経の読者の皆さんに何と詫(わ)びたらいいのか」と繰り返し言う。
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