2009.04.11 Saturday 01:58
くっくり
わが国本来の言葉のあり方に照らして、今の世のていたらくをふり返つてみますと、ため息ばかりがわき上つてきます。
われわれは、言挙げすべきところで言挙げせず、すべきでないところで言挙げしてばかりゐる。
たとへば上代では、国のそとのまつろはぬ者どもに対しては、「言挙げ」の一変形として「言向和平(ことむけやはす)」といふことが行はれました。
つまり言葉を相手に向けて発し、説得、平定を行ふといふことなのですが、国際的な場面では、現代でもまさにこの「コトムケ」が不可欠です。
ところがこの半世紀あまりの日本では、この「言向和平」といふことの行はれたためしがない。
そしてそのかはりに、国の内側では、ただもつぱら上に居る者を追ひ落すためだけに言葉が使はれる。
朝日新聞をはじめとする新聞ジャーナリズムの世界では、それが崇高な使命だと考へられてゐるのですから、彼らに「言挙げ」のいましめなど語つてみるだけ無駄といふものでせう。
さらに、もろもろの週刊誌やネットの上にあふれてゐるさまざなの悪意にみちた言論の類ひにいたつては、もはや「言挙げ」といふ言葉もふさはしくない。
ちやうど『古事記』に語られる、天照大御神が天の石屋戸にこもられたときの世のありさま——世の中が五月の蠅のぶんぶんいふやうな声に満ちて、あらゆる災厄がおこるといふさま——を思ひ出させます。
けれども、現代の日本にも、ただ一つ、言葉が本来のあり方をしていゐる、あるいはむしろ、本来のあり方をしてゐなければならない領域があります。
それが皇室といふ領域なのです。
上代の人々は天皇を「すめらみこと」とお呼びしました。
これは、天皇は「みこと」を持たれ、「みこと」を発せられる存在であり、それは非常に尊い(すめらなる)お言葉なのだといふ意味です。
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