桜と日本人の感性
2009.03.21 Saturday 01:03
くっくり
たとえば、アメリカにも桜はありますが、アメリカ人にとって桜は「オー・ワンダフル、ビューティフル」と眺める対象にすぎず、そこにはかない人生を投影するヒマ人はいないそうです。
「もののあわれ」の他にも、日本人は自然に対する畏怖心や、跪(ひざまず)く心を元来持っています。
が、欧米人にとって自然は、人類の幸福のために征服すべき対象です。
(たとえば、昭和21年にGHQの諮問機関のメンバーとして来日したヘレン・ミアーズも著書『アメリカの鏡・日本』の中で、「私たち(アメリカ人)は自然を征服することを考えた。日本人は自然を敬い、たいせつにした」と述べています)
日本人は自然に聖なるものを感じ、自然と調和し、自然とともに生きようとした。そういう非常に素晴らしい自然観があり、だからこそ神道が生まれた。
この情緒が、ある意味で日本人の民族としての謙虚さを生んできたと、藤原さんは言うのです。
さらに日本人は自然と心を通わせるという得意技を持っていて、俳句などはその好例であると、藤原さんは言います。
評論家の森本哲郎氏がドイツを旅行していた時、列車の中でこんなことがあったそうです。
彼は芭蕉の俳句集を読んでいたのですが、前に座ったドイツ人大学生に「何を読んでるんだ?」と聞かれました。
「俳句だ」と答えると、「俳句って何だ?」となったので、「枯れ枝に 烏(からす)の止まりたるや 秋の暮れ」という句を訳してあげたのだそうです。「枯れ枝に烏が止まっています。秋の暮れ」と。
するとその大学生は、こう言ったそうです。「それで?」
欧米人にとっては、それではストーリーは何も始まっていないのです。だから「それで?」と。
でも、日本人で「それで?」と聞き返す人はいません。聞いた瞬間に誰でも、沈む夕日を背に、枯れ枝がスッと伸びていて、烏がポツンと止まっている姿が思い浮かぶ。そして秋の憂愁が村全体、町全体、国全体を覆っていくイメージがすぐに湧く。
人によりニュアンスの相違はあれ、こんなことを日本人なら誰でも瞬間的に思い描く。
「古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音」という有名な芭蕉の句も、日本人なら、森閑(しんかん)としたどこかの境内の古池に、蛙が一匹ポチョンと飛び込む光景を想像できるし、その静けさを感じ取ることもできます。
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