戦後の昭和天皇を振り返る

2009.02.10 Tuesday 00:26
くっくり


 ここに、わたしが「記憶の王」と呼ぶ昭和天皇の「畏るべき」姿がある。昭和11年の事件から40年近くが過ぎ、天皇もすでに74歳になっていた。肉体は衰えても天皇の記憶は少しも衰えていなかった。
 天皇が、二・二六事件において決起青年将校から一時は軍事政権の首班として推(お)された、真崎大将の息子とにこやかに並んでみせたのは、「記憶の王」が40年ちかくの時間をかけて判断を下した天皇政治だったのではないか、とわたしは考えている。
 天皇家として、天皇制が国内の権力闘争を超えて存続するシステムとなるための、天皇自身の判断だったのではないだろうか。


■[激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸/松崎敏弥

 当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、号泣していたのである。
 後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、たびたび思い出した。(談)


■[皇居清掃]GHQを驚かせた占領下の「皇居勤労奉仕」誕生秘話/高森明勅

【皇居勤労奉仕はいつ、どのような経緯で始まったか?
 木下道雄侍従次長(当時)の証言によれば、昭和20年12月に宮城県内栗原郡の60人の青年グループが皇居の坂下門にやってきて、「二重橋の前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れていると聞き、草刈りやお掃除のお手伝いのために上京しました。どうかお手伝いをさせて下さい」と申し出たのが最初。
 実際は60人が突然やってきたのではなく、これ以前にグループのリーダー二人が上京、応対した筧素彦総務課長(当時)との間で勤労奉仕の受け入れをめぐるやりとりがあった。当時は占領下にあったため、筧氏は上の方に迷惑が及ぶことがあっては一大事であると考え、一切の責任を負って自分の独断で受け入れを決意した】

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