「たけしの“教科書に載らない”日本人の謎」良かったです
2009.01.06 Tuesday 00:51
くっくり
利用したのは神田明神だけでない。
たとえば兜町はもともと将門の兜が祀られていたという伝説が残されている。この地にあるのは兜神社。
筑土神社には将門の首を納めたという首桶が祀られている。
鎧神社は将門の鎧が祀られている。
このような場所が江戸中に点在していた。
家康・天海は江戸の都市計画に将門の遺物を利用した。
これらの神社や塚の場所を、五街道とお堀の交わった城門など重要な場所に移転して配置したのだ。
他に家康と天海は、800年繁栄し続けた平安京にあやかり真似しようとしていた。
平安京にあるものを持ってきて似せようとした。
比叡山延暦寺→上野の山の東叡山寛永寺
吉野の桜→上野に桜を植林
清水寺→上野の清水観音堂
五重塔→上野の五重塔
琵琶湖弁財天→不忍池弁天堂
今、私たちが上野の山として知る場所は、全て平安京を真似て造られた場所。
が、江戸には平安京の天照大御神のような祖先神がない。
そこで家康は「死んだら関八州の守り神になる」と言い残し死んだ。
死後、天海の働きかけで家康は朝廷から「東照大権現」という名前が与えられた。
そして日光に家康の遺骨を移した。日光を選んだ理由は、江戸に対し北にあったから。これは陰陽道にとって大切な意味を持つ。
陰陽道にとって北極星は最高神。この世を治めるものの象徴。
江戸の北にあたる日光山に鎮座することによって、家康を最高神の代理として位置付けようとした。
天海は家康を永遠不変の江戸の守り神にしようとしたのだ。
そして家康の考えに従い、歴代将軍たちも死後、江戸の街を守り続けるようになった。
寛永寺は京都を模したもの。
では、増上寺はなぜ寛永寺と同じぐらい重要なのか?
増上寺は東海道に近く、先には陰陽道の最高の聖地・富士山(不死山)が控えている。
江戸城の堀は本丸を囲むように螺旋状に造られていったが、これは富士山のエネルギーを取り込むため。
増上寺が立っている場所はちょうど富士山からのエネルギーが江戸城に流れ込む要の場所。
これら江戸を守りパワーアップさせる2つの寺にその力を維持させるため、将軍たちは代々葬られてきたのだろうか。
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