「雷」工藤艦長の武士道精神とサー・フォールの報恩
2008.11.03 Monday 02:46
くっくり
「雷」沈没のショックからでしょうか、戦後、工藤艦長は戦友と一切連絡を取らず、親戚の勤める病院を手伝いながらひっそりと暮らしたそうです。
そして1979年(昭和54年)、工藤艦長は病気で亡くなりました。子孫もなく、工藤家は絶えました。
工藤艦長の死を知ったサー・フォールは、墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願い、2003年10月に来日しました。が、その際はあいにく墓も遺族も所在がわかりませんでした。
この初来日の際、海自は、観艦式にサー・フォールを招待しました。
恵隆之介氏によれば、当日、観艦式出港直前に護衛艦「いかずち」(四代目)の士官室で、サー・フォールは救助当時の模様を語り、「シュンサク・クドウ」「イカヅチ」と敬意と郷愁をもって恵隆之介氏らに語ってくれたそうです。
そして観艦式終了後、一行が岸壁から約3キロの位置にある駐車場に向かって歩いていた時のこと。
当時84歳のサー・フォールは不自由な右足を引きずりながら、観艦式見学者の帰路を誘導する海自の下士官、兵に対し、いちいち立ち止まり、たどたどしい日本語で、「アリガトウゴザイマシタ」と丁寧にお辞儀を繰り返したそうです。
イギリス人でサーの称号を持ち、高位にある人がこのような行動をすることは極めて異例だそうです。
関係者の努力により、2004年12月、ついに工藤艦長の墓所(川口市薬林寺)と遺族(甥御さん)の所在が判明します。
そのことを伝えられたサー・フォールは、再度訪日して墓参を果たしたいと希望したのです。
再来日は当初は今年7月と伝えられましたが、サー・フォールの健康状態その他の事情により、10月末に延期されました。
が、何のニュースも伝わっていないところを見ますと、どうやらその日程も延期されたようです。
そこでネットでいろいろ検索してみましたところ、「台湾総合ブログ/風土と大和言葉そして大和心」さんにて情報を見つけました。
それによれば、再来日は12月8日に決定したとのことです。
工藤艦長は、この救出劇を家族にも語ることなく亡くなりました。つまりサー・フォールの来日がなければ、おそらくは日本人のほとんど誰にも知られることがなかった話なのです。
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