2008.06.03 Tuesday 01:12
くっくり
「アメリカの鏡・日本」(昭和23年出版。出版当時、マッカーサーにより邦訳出版が禁止された)より
徳川時代の日本のように、私たちの社会とはまったく違う社会の価値観や満足度を、現代のアメリカ人が理解するのは、もちろん容易なことではない。私たちの発展パターンは、ほとんどすべての点で日本とは違うのだから、価値観、満足度は当然違ってくる。私たちは急いでいた。広大な大陸を手なずけ、治めなければならなかった。だから、儀礼とか世襲による特権を維持するために時を費やしたり、辛抱している余裕がなかった。私たちは、形式にとらわれず、やるべき仕事を直進しなければならなかった。
日本人の場合はまったく逆だ。彼らは急いでいなかったし、何がなんでもやらなければならないことはあまりなかったから、性急であるより気長であることに重きを置いた。だから変化に抵抗し、日常の細部にこだわったのである。
政治、社会、家庭で、そして戦においてさえ、彼らは伝統、儀礼、祭祀にこだわった。彼らは形式を無視するどころか、極限の儀礼を求め、伝統的に正しいとされる行為の礼を社会制度の基本にしたのである。
私たちはつかえるものがあまりに豊富だったから、何でも惜しみなくつかい、試した。日本人はそれができなかった。彼らに必要なのは保存だった。過剰は私たち国民にとって国民的美徳だった。私たちは浪費信仰をつくり出し、日常生活で消費した物はただちに補充するという考え方の上に、文明を発達させてきた。日本人は節約を最大の徳とした。彼らは節約信仰をつくり出し、何物もむだにせず、もっているものはすべて完全につかいきった。
私たちは大きいものを信じた。日本人は二エーカーの農地から、小さな家、箱庭、根付、盆栽といった独特の表現様式にいたるまで、小さいものを信じた。ボンビル・ダムが私たちの論理に合ったものなら、段々畑は日本人の論理に合ったものなのだ。そして、今日、空の巨大要塞が私たちにとての論理的産物であるなら、一人乗り潜航艇は物を節約する日本的精神の表れなのである。
私たちは急いでいた。装飾や美的効果を考える余裕は、時間的にも精神的にもなかった。私たちが求めていたのは、物質的な快適さと便利さだった。日本人は急いでいなかった。彼らは物質的に貧しかったから、もっているものを飾ることを考えた。美は彼らの文明の大事な要素となった。
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