外国人から見た日本と日本人(6)

2008.06.03 Tuesday 01:12
くっくり



 もともとわたしたちの大型車メルセデスは、日本の全く狭い道路にとってあまりにも長大で重すぎた。ところが農民たちはときには十分な理由があったにしても、けっして立腹した様子は見せなかった。

 わたしたちの車が町角の家にぶつかったり、耕作したばかりの畑に深い車輪のあとをつけることをかならずしも避けられなかったが、車が故障で動かなくなったときは、いつもわたしたちにただちにいかにも当然であるかのように援助の手が差しのべられた。その際、謝礼を出そうとすると彼らはまるで侮辱されたかのように驚きの表情をあらわにして拒否した。

 道路がもともと狭いのに、わたしたちの車が走ってくると、人々は自発的によけてくれた。そればかりかこうした作法は、世界中のどこでもけっして愛すべき遠慮深い連中とはいわれないトラックの運転手によってすら守られていた。トラックの運転手は、わたしたちの追い越しを許してくれたり、あるいはわたしたちが道に迷ったときは案内役を買って出てくれた。

 これらすべての親切は、そもそも日本に交通規則がいっさいない不便を多少埋め合わせてくれた。もともと日本ではすべての車が道路の真ん中かあるいはまちがった側を走り、さらに他の国々と同様、子どもやニワトリは車が走ってくる寸前に道路を横断するのを常としたので、運転手としては心臓をドキドキさせずに村や小都市を通過することはできなかった。

 やっとのことで車の泥よけとの衝突をのがれた小さなわんぱく小僧が母親の腕に抱かれると、母親はまるで「わたしの子どもは小さいけど勇敢な英雄でしょう」とでもいいたげに、いかにも誇らしげに、そして幸せそうに微笑んだ。

 ヨーロッパ人として、そもそもアジア人から学ぶことのできる最良の事柄はけっして怒りを示さず、常に自制した態度をとりつづけることであるが、こうした際になし得る最善の行為は、微笑み返すことである。

 このように常に友好的な自制した態度をとることは、当然のことながら、さらに進行すると仮面をつけた偽善者ということにもなる。

 そのために多くのヨーロッパ人は日本人を不誠実であると考えるようになる。そうはいうものの、こうした友好的な態度は、ちょうどアメリカ人の微笑を絶やさない態度(キープ・スマイリング)のように、大勢の人間が狭い空間の中で摩擦なく共同生活をしてゆく上のすぐれた補助手段である。


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