2008.04.19 Saturday 01:37
くっくり
「SPA!」4月22日号
勝谷誠彦の「ニュースバカ一代」
VOL.281 ダライ・ラマ14世会見の巻
「見識」という言葉が私は好きだ。
おさまりかえっていれば誤魔化せるのが「品格」であるとすれば、ふいに飛び込んできたものに対する反応で試されるのが「見識」だと私は思っている。
世界を巡っている聖火という中国の恥の火は、それぞれの国で人々の「見識」を問うことになった。
ロンドンで、パリで、サンフランシスコで、人々が聖火に対して起こした行動は、まさに表現のオリンピックだ。
いかに前のリレー地よりも効果的で、若干のユーモアやウィットも込め、そして何よりも非暴力の原則を護ってアピールするかということを、自由と人権を愛する人々は楽しんでいるようにすら見えた。
そこには奴隷的支配や独裁といったものは、人類の歴史の普遍的な原理として消えていくものだという「見識」がある。
だからこそ、ある種の余裕が人々の抗議行動の中に感じられるのだ。
同じことを私は、来日されたダライ・ラマ14世猊下の成田空港での会見にも見た。
中国政府が自らを悪魔呼ばわりしていることに対して、猊下は「悪魔かどうかはみなさんに判断していただければいいのですが、角はないですよね」と、両手を頭にかざす仕草までされた。
その一方で、「暴力的な行動に出ないようにとメッセージを送っています」と、きちんと担保しながら、「誰も『黙れ』と言う権利はありません」と、人々の抗議行動を支持した。
自由や人権に対する確固たる「見識」があれば、自ずと余裕が生まれてくるものだということを、私は今回の聖火をめぐる一連の動きで見て、人類というものをいささか見直している。
北京五輪はあるいは皮肉な形で、人類の成長を助けてくれているのかもしれない。
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