「ムーブ!」チベット抵抗史 ペマ・ギャルポさん出演

2008.03.29 Saturday 00:10
くっくり


「しかしある日、突然雰囲気が変わり、村の子供が毛沢東の写真を傷付けて喜ぶというようなことがあった。中国軍に水を届けた女の子が乱暴されるということが何回もあり、村人たちが立ち上がったというんです。もちろん中国軍にはかないませんでした」

image[080324-10jittaiken3.jpeg]上田剛彦
「そして1958年頃、ペマ・ギャルポさんはインドへ逃げる途中に、自身も逃げながら何度か追っ手の中国軍と戦った経験があるというんです。村を出た時には200人だったチベットの人たちも、インドに着いた時には20人ぐらいに減っていた。さらに村に残ったおばあさん2人と兄2人は餓死したり、射殺されたりしたと、あとで聞いたということです」

image[080324-11jittaiken4.jpeg]上田剛彦
「そして他にも、ペマさんのお父さんには2人の妻がいたということなんですが、そのうち年下の方の奥様は、騒乱を起こしたうちの1人だったということなんです。そこで中国政府は処刑したように見せかけるために、年下の妻にそっくりのいとこを殺したということです」

image[080324-12inai.jpeg]上田剛彦
「ペマさんは、チベット全土では家族が全員そろっている人はいないとおっしゃいます」

堀江政生
「うん、ペマさん、その、最初はダライ・ラマの写真と毛沢東の写真と、そしてまだ蒋介石(?)もいたり……」

ペマ・ギャルポ
「あのー、その時、その時の法王と5人ですね。あの、真ん中に毛沢東が座っていて、それから両脇に法王とパンチェン・ラマ、それから劉少奇と周恩来が座ってたんです。で、それはいわゆる、その、1951年に押し付けられた17条の条約に基づいて、法王があの、中国に54年に訪問したんです。その時に写真を撮ったものなんですね。それであの、チベットの人たちも法王も、中国を信じて写真を飾ったんです。ところが実際上は、その17条の条約というものを、次から次へと破られてくるわけです。で、そして人々が我慢できないような、たとえば人民裁判が始まったり、それからあの、一般の人たちに乱暴したり、それからそれまで一般の人たちはチベット政府にもそれまでの税金を払って、さらに中国人が入ってきた者たちを養っていかなくちゃならない。そうするとほんとに立ち上がったのはむしろチベット政府というよりもチベット人民が立ち上がったんです。で、それでそのあとにまあ僕たちは、その、だんだんと悪化して、あの、ふるさとを去ってインドに亡命しました。で、その時にね、僕は戦ってはいなんですよ。僕が戦ったのはシラミと、あと飢餓だけですよ」

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