外国人から見た日本と日本人(5)

2008.02.11 Monday 02:58
くっくり


伊勢神宮の社殿建築を評して

 伊勢は世界の建築の王座である。芳香高い美麗な檜、屋根の萱、こうした単純な材料が、とうてい他の追随を許さぬまでに、よく構造と融合している。形式が確立された年代は正確にはわからず、最初に作った人の名前もわからない。おそらく天から降ったものだろう。

■ヘレン・ミアーズ=アメリカ人。東洋学者。1920年代から日米が開戦する直前まで2度にわたって中国と日本を訪れる。1946年(昭和21年)に連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった。
「アメリカの鏡・日本」(昭和23年出版。出版当時、マッカーサーにより邦訳出版が禁止された)より

 ポツダム宣言は、日本国民を決起させ降伏を早めるための解放戦略として受け止められていた。対日プロパガンダ、とくにザカリアス海軍大佐が制作、放送していたラジオ番組と同じようなものだ。しかし、日本での効果はまったく逆だった。降伏を決定すべき政策立案者の立場からすれば、宣言は和平勢力より、むしろ「徹底抗戦」派の力を強める効果しかもたなかった。ポツダム宣言の内容は、よくいえば「厳しく、贖罪(しょくざい)的」、悪くいえば、経済条項はきわめて漠然としていたし、特定されない戦争犯罪人の追及があまりに広範で曖昧だったから、それが指導部と全国民に対してもつ意味を理解できるものには、ただちには受け入れがたいものだったのも当然である。しかし、その過酷な条件にもかかわらず、「六首脳(ビッグ・シックス)」(訳註=最高戦争指導会議のこと。首相、外相、陸相、海相と陸軍参謀総長、海軍軍令部総長で構成)のうち3人は即時受諾に賛成していたのだ。

 しかし、私たちは和平支持派に反対勢力を説得する時間的余裕を与えなかった。私たちはたった11日間待っただけで、いきなり一発の原子爆弾を、そして2日後(原文のママ)にはさらにもう一発を、戦艦の上でもない、軍隊の上でもない、軍事施設の上でもない、頑迷な軍指導部の上でもない、二つの都市の約20万の市民の上に投下した。しかも、犠牲者の半数以上が女子供だった。


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