沖縄戦集団自決問題まとめ(1)

2007.11.10 Saturday 03:21
くっくり



・徳平秀雄郵便局長(村の有力者の一人)の証言
 ※「沖縄県史」第10巻より
 恩納川原に着くと、そこは、阿波連の人、渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって、艦砲、迫撃砲が撃ちこまれました。上空には飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現われ、わいわい騒ぎが起きました。砲撃はいよいよ、そこに当っていました。
 そこでどうするか、村の有力者たちが協議していました。村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人もいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片づけようではないかと、いっていました。
 防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は、持って来た手榴弾を、配り始めていました。
 思い思いにグループをつくって、背中合わせに集団をなしていました。自決と決まると、女の子の中には、川に下りて顔を洗ったり、身体を洗っている者もいました。
 そういう状態でしたので、私には、誰かがどこかで操作して、村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。

 このように、集団自決を決定したのは日本軍ではなく、村の有力者たちと防衛隊員であり、彼らの協議によって決断されたことだったのです。

 防衛隊=日本軍ではないということは、実は当時の住民の中にもきちんと区別できていた人、できていなかった人に分かれているようです。当時まだ幼かった場合は特に区別できていなかった傾向が強いのではないでしょうか。

 したがって、テレビや新聞などで見かける証言者の中には、現在もその区別ができずに「軍から手榴弾をもらった」旨、言っている人もいるようです。

 あるいは、軍と防衛隊の区別ができた上で証言をしているにもかかわらず、マスコミ側が「証言者は軍からもらったと語った」というふうに、勝手にキャプションやナレーションを付けているケースも少なくないと思われます。

 たとえば、2007年6月21日に放映されたNHK【クローズアップ現代】の「『集団自決62年目の証言−沖縄からの報告』」では、座間味島について次のような場面がありました。

ナレーション
「集まったお年寄りからは日本軍の兵士によって集団自決に追い込まれていった当時の状況が語られました」

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