沖縄戦集団自決問題まとめ(1)
2007.11.10 Saturday 03:21
くっくり
◆集団自決出版差し止め訴訟
大江健三郎と岩波書店は厚顔無恥にも、【沖縄ノート】の誤った記述を変えないまま発行し続けており、梅澤・赤松両氏への「報道被害」はその後も続いているのです。
そこで、2005年8月、梅澤氏と故・赤松氏の弟が、大江健三郎と岩波書店に名誉毀損と賠償・出版差し止めを求める裁判を起こしたのです。*3
*3 【母の遺したもの】は本来なら隊長命令がなかったという証拠になりえたはずですが、2007年7月27日の公判で宮城晴美氏は、軍命令はあったと見解を変えて出廷しました。原告側の徳永弁護士による尋問により、宮城晴美氏は見解を変えたのはわずか1か月前であることを証言しました。そして、梅澤氏が命令を出したという証拠があるわけではなく、軍に責任があり、そうなら部隊長の梅澤氏に責任があると考えるようになったに過ぎないことを認めました。1か月前に考えを改めたことに対して、深見裁判長は「本当にその証言でよいのですか」と聞き返すほどでした。
梅澤氏は2007年11月9日午前に大阪地裁で行われた口頭弁論で、軍の一定程度の影響は認めたものの、「(自決用の弾薬などを求める村民に対し)死んではいけないと言った」と改めて証言、軍命令説を強く否定しました。また、梅澤氏はこう言っているそうです。「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている。この裁判に勝たなければ私自身の終戦はない」(産経11/9、産経iza11/9、本人尋問詳報はこちら)。
同日午後には大江健三郎氏本人が初めて出廷しました。が、「軍命令はあったと考えている」「(【沖縄ノート】の)記述は訂正する必要はないと考える」と述べ、「集団自決命令は隊長個人の資質や選択ではなく、日本軍の縦の構造の力が島民に強制した」とし、隊長命令があったか否かという裁判の争点を「広義の強制」にすり換えたのは、冒頭で述べた通りです。
◆なぜ「集団自決」が起こったのか
そもそもなぜ「集団自決」が起こったのか。
1945年(昭和20年)2月末、17歳で座間味島の戦隊本部付きの伝令として徴用された宮平敏勝氏は自由主義史観研究会の取材に対し、次のように証言しています。
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