沖縄戦集団自決問題まとめ(1)

2007.11.10 Saturday 03:21
くっくり


 曾野氏は「神話として【鉄の暴風】に描かれた将校会議の場面は実に文学的によく書けた情景と言わねばならない」と痛烈に批判しています。

 また【鉄の暴風】には、「自決命令」で死んだのが329人だったという記述がありますが、これについても知念氏は、【沖縄県史 第4巻 各論編9】(1974年)で、「私が見た自決遺体は6、7体でした。(中略)赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けて、早まったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。(中略)集団自決の命令なんて私は聞いたことも、見たこともありません」と証言しています。

 実は渡嘉敷島には赤松隊長の小さい顕彰碑があります。当初、立派なものを作ろうと計画したのですが、左翼勢力が騒ぐとの理由で、誰にも分からない場所に隠匿しています。そして、今でも毎年、遺族会などの人たちの手で赤松隊長の慰霊祭を秘かに続けているのだそうです。


◆座間味島

 一方、座間味島ですが、梅澤裕少佐が「自決命令」を出したとする資料は【鉄の暴風】の他にいくつかあり、【沖縄県史 第10巻 沖縄戦記録2 座間味村】(1974年)には、梅澤隊長の命令で300名弱が集団自決したと記録され、この説が定説化しました。

 ところがこれも1985年(昭和60年)、神戸新聞が関係者に取材したところ、「日本軍の命令はなかった」との証言が得られ、その記事は7月30日付に掲載されました。
 同紙はさらに86年、87年にも続報を報じました。

 1987年(昭和62年)には東京新聞も、「大戦通史 勇気ある訂正」「弟が証言 補償得やすくするため」と報じました(「補償」=「遺族年金」については後述)。

 1986年(昭和61年)発行の梅澤氏自身の手記【戦斗記録】によれば、座間味島で現実に起きた事件は次のようなものでした。

 1945年(昭和20年)3月25日の22時頃、部隊の本部壕に村幹部5人が来訪、「軍の足手まといにならず、また食糧を残すために、自分たちは自決する」という申し出を受けた。梅澤隊長は愕然とし、「決して自決するな。生き延びて下さい。共に頑張りましょう」と説得して帰した。ところが、翌26日から3日位にわたって村民たちは次々に悲惨な最期を遂げてしまった――。

 当時、梅澤隊長のもとへ訪れた村幹部5人のうちの1人、宮城初枝氏(当時、女子青年団長)も「梅澤少佐らは、『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、(自決のための)武器提供を断った」と、同様の証言をしています。

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