追悼 阿久悠さん

2007.08.04 Saturday 01:15
くっくり


平成十八年四月六日 曇

 週末なので、病院で三時間努力と忍耐の時を過ごしたあと、妻の運転で伊豆へ戻る。テレビをかける。民主党の代表選挙を実況中継しているのである。着替えながら、目と耳はテレビに集中する。何を語るか。

 それにしてもここ数日、テレビが示してみせた民主党への異常なる好意には、驚かされる。あたかも、この選挙で勝った人に、日本という国を託すかのような雰囲気作りで、少々以上の作為を感じる。

 そもそもは致命的大失点の修復と、出直しの謙虚な決意表明に過ぎなかった筈なのに、バカ騒ぎともいえるテレビのハシャギようで、むしろその正体と魂胆を見きわめたい気持ちでテレビを見た。

 小泉純一郎の演説の時の目の高さは、たとえば大ホールの二階最前列あたりを見ている。菅直人は一階中央部、それに比べて小沢一郎は演台から一階最前列にかけての目線で、国民へという広がりは感じられなかった。これは習癖であろう。

 それでも、小沢一郎待望論は一部には強いものがあるようで、好意と敬意に満ちた扱いをされている。よっぽど凄いのか、よっぽど恐いのか、ぼくらにはわからない。ただ、若かった前代表たちに対する態度とは明らかに違って、どこか腰がひけている。そう見える。それに首を傾げる。

 「変わらずに生きるためには、変わらなければならない」という、ルキノ・ビスコンティ監督の「山猫」の中の有名な台詞の引用を、小沢の決意、小沢は変わると伝えていた。

 変わるとは如何なることか。我(が)も個性も捨てて、今の民主党に溶けるということか。それではつまらない。

 パフォーマンスは装うことではなく、自らを発揮することをいう。発露でもいい。最大限の自分の表明がパフォーマンスであって、芸事とは違う。

 愛敬がよい小沢一郎は、シンパであろうが意地悪なウォッチャーであろうが、期待していないだろう。「変わる」とは、変身でも変心でも変節でもなく、「情勢を知る」という意味である。

 「パフォーマンス」と「変わる」を、くれぐれも誤解なきように。

平成十八年六月九日 雨

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