2007.06.26 Tuesday 01:19
くっくり
黒木博司の妹、教子が兄と最後に会ったのは昭和19年5月21日、岐阜駅前の小さな旅館だった。
夜の8時ごろから、母親の手作りのすしで夕食が始まった。食事が終わると、母親に耳あか取りをせがんだ。10時ごろに父親が合流し、翌午前5時ごろまで話は続いた。
「両親と少しでも長く一緒にいたかったのでしょう。冗談を言って笑わせていました」
話の内容は正確には覚えていない。ただ、黒木の手紙の多くが血書で書かれており、傷を心配していた母親が「手相を見てあげる」と手を出したところ、黒木がその手を払いのけたことは覚えている。
朝、黒木は大きなかばんを大事そうに抱えて旅館を後にした。
「きっと回天に関する重要な資料が入っていたのでしょう」。このころ、黒木は海軍を相手に回天採用について奔走していた。
■ ■
昭和16年1月、海軍機関学校を卒業した黒木は戦艦「山城」に乗艦。その年の12月、大東亜戦争が勃発(ぼっぱつ)した。黒木はすぐさま両親に手紙を出している。
<皇国の興廃此の一戦に有之、事容易ならず、神武肇国以来の最大国難にして、長期の困苦に堪ふる忍堪の力こそ最後の決と存じ候。此の長期の忍苦は、一に国民の団結、国民精神の振作一致に他ならず候>
黒木は、列強相手の戦争は長期化し苦戦することを危惧(きぐ)していた。
翌17年8月、少尉に昇進。特殊潜航艇の搭乗員の道を選び、海軍潜水学校に入学。その年の秋、呉海軍工廠(こうしょう)魚雷実験部分工場に赴任する。
東京帝大教授の平泉澄には、これまで経験したことのない国難に対処するため、日本人にとって忠臣の鑑(かがみ)とされる楠木正成には及ばないまでも、開戦当初、真珠湾で特殊潜航艇で攻撃、壮烈な最期を遂げた9人の軍人魂を継承、死にがいのある働き場所を求めると報告している。
黒木の当時の思いは、翌18年1月に色紙4枚に血でつづった『尊皇遺言』から推察できる。
<秋(とき)ニ今皇軍死戦神国危フシ、如何セン、即チ先哲ニ聞ク、一死奉公ト正ニ征キテ必ズ還ラザルノ死ヲ以テセバ回天ノ大効何ゾ成ラザラン。時ニ特殊潜航艇ハ天賦ノ利剣ナリ、平生ノ志乃チ決ス、則チ昨春来熱願シテ暮秋ニ叶フ、今又自カラ死地ヲ画ス、呼皇ノ為命死スベキ悦ビ今日此ノ心ニ極ル>
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