誰がために散る もう一つの「特攻」(1)〜(5)

2007.06.26 Tuesday 01:19
くっくり



 竹林は出撃前に受け取った錦織りの袋から短刀を取り出しながら、何度も表情をゆがめた。

 =敬称略
(宮本雅史)


産経新聞朝刊大阪版07年6月8日付社会面掲載
誰がために散る もう一つの「特攻」(4)

【死をかけた戦い】志願者 国を思って出撃


 「あんなものを作った兄のことだから…」。しばらく口ごもった後で重い口を開いた。80歳を過ぎた今日まで、彼女を寡黙にさせたのは周囲の視線への遠慮だった。

 「大津島の慰霊祭で、マスコミの方から、回天搭乗員の写真を前に『あなたのお兄さんのせいいでこの人たちが亡くなったのですが、どう思いますか』と質問されたことがあります。ただただ申し訳ないという気持ちで、何とも申し上げられませんでした」

 回天の考案者、黒木博司の妹、教子。30歳で夫と死別し、その後4人の子供を1人で育てた。

 「母と回天添乗員のご遺族を訪ねた折、『あの悲劇があったからうちの子も…』と。それを聞いた母は何かに耐えるようにつらそうでした。みなさんに迷惑をかけたという思いが強かったようですが、それ以前に世間の目が厳しかった」

 戦後、一部で黒木批判の声が上がった。遺族は沈黙を保つほかなかった。

 「身内を亡くされた方が“あの悲劇がなければ”と思うのは当然のことです。でも志願した人たちは、心底、国を思っての出撃だったと信じています。国や家族を守るのは命がけなんです」

■  ■

 黒木は大正10年9月11日、岐阜県下呂村(現下呂市)で医家に生まれた。父の弥一について、教子は「貧しい人からお金は受け取らない性格。病人がでると、どんなに遅くても、疲れていても必ず往診に行きました」と話す。

 母親のわきの口癖は「100人の人に笑われても1人の正しい人に褒められるように、100人の人に褒められても1人の正しい人に笑われないように」。「正直で曲がったことはしなかった」という。

 黒木の家族思いはつとに知られる。岐阜中(現岐阜高)時代、兄の寛弥が医学校を受験した際、兄の写真を床の間に飾って好物の菓子や果物を供え、3日間、断食をして合格を祈ったという。

 教子にも大切な宝物がある。手製の雛(ひな)だ。

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