誰がために散る もう一つの「特攻」(1)〜(5)

2007.06.26 Tuesday 01:19
くっくり


 
産経新聞朝刊大阪版07年6月5日付社会面掲載
誰がために散る もう一つの「特攻」(1)

【自己犠牲】逡巡なし「絶対◎」で志願


 昭和19年夏。日本軍はサイパンで玉砕、フィリピンでは米軍の猛攻にさらされ、トラック島も大空襲で機能がほとんどマヒした。戦局は悪化の一途をたどっていた。

 軍部に焦燥感が漂う8月28日、茨城県・土浦海軍航空隊で突然、第13期甲種飛行予科練習生の偵察専修者約1500人に非常招集がかかった。満15歳から20歳未満の若者たちだ。

 札幌市出身の竹林(旧姓・高橋)博(82)もその中にいた。当時18歳。猛暑の中、大格納庫は出入り口が閉ざされ熱気に押しつぶされそうだ。経験のない緊張感の中、司令官が口を開いた。

 「敵撃滅の新兵器が考案された。この兵器に乗って戦闘に参加したい者があったら、後に紙を配るから、熱望する者は二重丸を、どちらでもよい者はただの丸を書いて提出しろ。ただし、この兵器は生還を期するという考えは抜きにして製作されたものであるから、後顧の憂いなきか否か、よく考えて提出するように」

 どういう兵器かの説明はなかった。「航空機による特攻攻撃だろうか」。そんな思いが脳裏をかすめた。竹林は躊躇(ちゅうちょ)せず二重丸を書き、「絶対」と付け加えた。

 「死ぬことがお国のために働く一番の近道だと思っていたから、逡巡(しゅんじゅん)しなかった。人生50年といわれていたが、軍人は半分、特攻隊は2割引きと思っていた」

 翌日、竹林を含む100人が選ばれた。竹林は実兄に<我、大空に墓場を得たり>と電報を打った。

 「家庭的に後顧の憂いがない者、家族、兄弟が多い者、攻撃精神旺盛な者…という選考基準があった。私は兄が1人だけだったのでひっかかったが、攻撃精神旺盛ということで選ばれたようだ」と竹林は振り返る。

■  ■

 特攻作戦への参加者について、全国回天会事務局長の河崎春美(83)は「兵学校出身者はプロの軍人だから指名だったが、予備士官や予科練出身者は純然たる募集だった。志願者の中から厳選して搭乗員を決めた」と説明する。

 2回にわたって出撃した吉留文夫(80)は、特攻を志願した若者たちの気持ちを、「本土が戦場になれば大量殺戮(さつりく)、国土崩壊は目に見えている。戦争がいいとか悪いとかではなく、何とか敵の侵攻を食い止められないか。みんながそう考えた。平和を守るということは死ぬ覚悟がなければできない」と語る。

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