集団自決 真実を語れない沖縄の特殊性

2007.06.24 Sunday 01:39
くっくり



 徴用されてすぐに米軍が上陸、熾烈な戦闘になった。4月11日、擲弾筒で左腿を負傷。その後、梅澤隊長(引用者注:座間味島守備隊長・梅澤裕氏)より集合がかかり、「これ以上戦闘は困難ゆえ、皆親元に帰れ」との解散命令が出る。民間人は米軍に捕まっても、すぐに解放されたので無事だった由。以下、宮平さんの証言の要点を記す。

 集団自決(3月25日、米軍上陸の日)については、宮平さん自身は「軍と行動を共にしていて、山中にいたので自決のことは全く知らなかった。解散命令が出て、山を下りた時、初めて知った」という。戦闘が始まって以降、軍は「民間人との接触はほとんどなかった」のである。「もし、自決が軍命令なら、伝令である自分が知っている。軍命令のはずがない」と断定された。宮平さんは自決現場そのものには居合わせなかったとはいえ、有力な傍証である。

 住民の意識はというと、戦闘が始まる前から「誰といわず、死を決意していた。そういう空気だった」。行政のリーダーを始め、特に「兵事係(*服部注…村長・助役・収入役の次のポストで、強い権限を持つとの由)が強硬派で、『自決すべし』であった」。

 解散直後、自決の状況を近親者や友人らに詳細を聞いたが、「世間では集団自決と言うが、それぞれの壕で家族が『無理心中』的に自決したのが実相です。役場から忠魂碑前に集まれとの集合がかかったけれども、艦砲射撃で皆ちりぢりになってしまった。それで各壕の各家族で自決した」。「自決したのは他と孤立した所にある壕の家族に多かった。情報が入ってこなかったから」だ。

 また、「中には率先して軍と共に戦う人も出たけれど、それは少数」であったらしい。

 私たちの「米軍が来るのは分かっていたのに、なぜ住民は疎開しなかったのか?機密保持のために軍が住民を疎開させなかったという説もあるが」との質問に、「確かに機密の保持やスパイ対策という意味合いで、島を自由に出てはいけないということになっていた…、しかし、住民は『どうせ死ぬなら島で死にたい』という思いがたいへん強く、疎開はしなかった」と説明された。沖縄には、一族は同じ墓に入るという伝統がある。どうせ死ぬのなら、家族一緒に死のうと考えていたというのである。

[7] << [9] >>
comments (58)
trackbacks (4)


<< 【お知らせ】河野談話の白紙撤回を求める署名にご協力を
誰がために散る もう一つの「特攻」(1)〜(5) >>
[0] [top]


[Serene Bach 2.04R]