2007.05.08 Tuesday 01:52
くっくり
<民戦は民族団体ではなく、日本共産党の尖兵>
という声明を発表して民戦を離脱する。
実際、民戦は“オモテ”の顔としては日本国内の在日朝鮮人組織の統一戦線であったが、“ウラ”の顔としては、共産党の民族対策部の指導下にあった。
そのため、活動に参加した朝鮮人党員の多くは、1951年2月の4全協(第4回全国協議会)で決定された“武装闘争”の前面に立つことになり、大きな犠牲を出してしまう。
なぜ、多大な犠牲を払ってまで“在日朝鮮人”は、共産党の“武力闘争”の方針に積極的に従ったのか。
実は、4全協では在日朝鮮人を、戦時下の日本政府にならったのかどうか、
<日本のなかの少数民族>
と規定したのである。
この規定では、在日朝鮮人は外国人ではないことになる。つまり日本革命をなし遂げることなくしては、在日問題は何一つ解決しない、とされたのである。
大量だった在日の逮捕者
その年の8月19日、共産党第20回中央委員会総会で、『日本共産党の当面の要求――新しい綱領』、いわゆる51年綱領の草案が提出された。51年綱領は、平和革命の可能性を全面的に否定し、4全協で採択された軍事方針を正当化し、山村工作隊活動や火炎ビン闘争を展開する極左冒険主義方針の根拠となった。綱領草案は、10月16日の第5回全国協議会(5全協)で採択された。
『日本共産党の60年』や『日本共産党の70年』など公式の党史は、極左冒険主義や軍事方針は当時の、“徳田球一書記長を中心とした分派”がやったこととして、責任を回避している。しかし、分派闘争、内部の勢力争いにうつつをぬかしたのは、徳田、宮本顕治(のちに書記長、中央委員会議長)などひと握りの幹部たちだけであった。朝鮮人党員を含めて大部分の党員は、共産党の方針を正しいと信じて、身の危険をかえりみず忠実に参加したのである。
共産党の軍事方針のもとで、いくつもの騒乱事件が起きた。
1952年(昭和27年)の5月1日、第23回メーデーで、デモ隊と警官隊とが衝突したいわゆる“血のメーデー事件”がある。戦後、皇居前広場は“人民広場”と呼ばれ、たびたび集会場として使われてきたが、その日、政府は使用禁止とした。だが、メーデー参加者たちは広場に突入。在日朝鮮人はデモ隊の先頭で警官隊に対峙した。
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