2007.05.08 Tuesday 01:52
くっくり
☆
敗戦直後から、在日朝鮮人の間で、子弟に対する民族教育をしたいという要求が高まっており、在日団体が自然発生的に各地につくられた。それらをまとめ、相互扶助的な団体として、
<全日本に在留する240万同胞の生命と財産を保護し、あらゆる権利を主張すべき唯一の代表機関>
を宣言して、1945年10月15日に結成されたのが、朝連、在日本朝鮮人連盟であった。
当時を憶えている在日の古老たちによると、
「味噌とか醤油とか木炭を配給したりして、今でいう生協のようなものだった」
「隠退蔵物資を摘発して、在日の商工業者へ原材料を提供することもやっていた」
という。
在日朝鮮人の運命は、激動する国際情勢にゆさぶられ続けていた。
第二次世界大戦の戦後処理問題討議のため、米英ソ3国の外相会議が、1945年12月、モスクワで開催された。朝鮮については、
<米ソの協議により朝鮮民族の臨時民主政府の樹立を準備し、米ソ両国は5年間の信託統治を実施する>
ということが決まった。
この決定は、朝鮮民族を信託統治に対する賛成、反対で二分し、南北に別々の政府が樹立されるきっかけとなる。朝連は信託支持であり、一方の反信託側は、46年10月に民団(在日朝鮮居留民団)を結成。それ以降、在日団体は二分されることになった。
1949年(昭和24年)3月27日、朝連は他団体とともに大阪の扇町公園で、吉田内閣打倒人民大会を開催する。大会後、デモ隊と警察官が衝突し、重軽傷者は16人にのぼった。同年6月11日には、朝連の参加する公安条例反対共闘委員会が、皇居前広場におよそ5万人もの参加者を集めて大規模集会を開催する。朝連の活動は活発だった。
日本政府は朝連を恐れるようになっていく。その年の9月8日、朝鮮民主主義人民共和国建国1周年の前日、朝連を強制的に解散させる。団体等規制令に抵触したという理由だが、背景には、冷戦の進行、中国大陸で共産党政権樹立という状況があったのである。
朝連解散後、日本共産党は民族対策部(民対)を設置する。民対は前身の朝鮮人部と同じく、主として在日党員で構成されていた。
朝鮮戦争勃発の翌年の51年(昭和26年)1月、在日朝鮮人統一民主戦線(民戦)が結成される。民戦は議長団の一人に民団の副団長である李康勲が加わるなど、当初は何とか統一戦線であろうとした。李康勲は、熱烈な民族独立運動家で、“北朝鮮支持”は決して口にしなかった人物である。しかし、結成から3年後の1954年(昭和29年)、李康勲は、
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