2007.05.08 Tuesday 01:52
くっくり
会議では、金天海を責任者として、朝鮮人部を設置することも決めた。実は、日本共産党の再建資金のほとんどは、当時の在日組織である朝連(在日本朝鮮人連盟)が提供している。このことは、党史には一行も触れられていない。
金天海は、同年12月1日に開かれた共産党第4回党大会で、7人の中央委員、5人の政治局員の一人となった。この党大会では中央委員候補に、同じ在日の宋性徹も選ばれている。
翌46年(昭和21年)2月の第5回党大会では、同じく在日の金斗鎔、朴恩哲、保坂浩明(李浩明)も中央委員候補となり、後に遠坂寛(崔斗煥)も加えられた。第5回党大会当時の党員数はおよそ6000人。うち約1000人が朝鮮人だったという。一大勢力であった。
金天海は、1898年(明治31年)、慶尚南道蔚山生まれ。本名を金鶴儀といった。1920年(大正9年)、仏教の勉強のために来日。日本大学社会科に入学したものの中退し、運動に身を投じた。活動家としてすぐに頭角を現し、1920年代には、早くも在日朝鮮労働総同盟(在日労総)委員長に就任。朝鮮共産党日本総局責任秘書も歴任する。責任秘書とは、今でいえば総書記とか書記長ということで、実質的な組織の責任者であった。人情家で在日朝鮮人の間では信望が厚かった。
筋金入りのコミュニストだった金天海は、戦前、2度投獄された。戦後、出獄後に朝連の最高顧問に就任している。
1949年(昭和24年)、朝連が強制的に解散させられる際、金天海は公職追放を受け、北朝鮮へ密出国する。北朝鮮では朝鮮労働党中央委員、社会部長、祖国統一民主主義戦線議長、最高人民会議常任委員を務めるなど、要職にあった。しかし、1970年代の金日成個人崇拝の高まり以降、消息は全くわからない。
在日は少数民族
金天海が、戦後再建時の日本共産党で、5人の政治局員の一人であったことをみても、在日団体に対する共産党の影響力が大きかった、というよりもむしろ、日本共産党における朝鮮人の役割がいかに大きかったかがわかる。
共産党が、在日団体である朝連などへの指導をぶれることなく続けられたのは、「朝鮮フラクション(支部)」を設置していたからだった。この組織は1947年(昭和22年)1月26日、金天海のもとで、責任者に「朝鮮民衆新聞」を創刊した朴興奎、後に朝鮮総連初代議長となる韓徳銖ら6名の委員と、4名の委員候補からなっていた。
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